彼女を見ればわかること [2006年 レビュー]
「彼女を見ればわかること」(1999年・アメリカ) 監督・脚本:ロドリゴ・ガルシア
「短編小説は、読むのは易しいが、書くのは易しくない」
こう言ったのは確か村上春樹だったと思う。
僕は短編小説集が好きだ。「短編小説」ではなく「短編集」が。
なにより長編と同じ時間を費やして、いろんなストーリーを楽しめるのがいい。
そして(たぶん)村上春樹が言ったとおり、いろんな意味で読み易い。
「彼女を見ればわかること」はハリウッドを代表する5人の女優による5つの女の物語である。
その内容は、ノーベル文学賞作家である父、ガルシア・マルケスから受け継ぐDNAの仕業なのか、監督のロドリゴ・ガルシアは映像作品でありながら、まるで短編小説のような、観客に“咀嚼を求める”作品に仕上げている。
第1話 「キーナー医師の場合」
主人公は老母を介護する女性医師。
演じているのは「ガープの世界」でアカデミー助演女優賞にノミネートされたグレン・クローズ。
第2話 「レベッカへの贈り物」
主人公は妻子ある男と不倫中の銀行の支店長。
演じているのは「ブロード・キャスト・ニュース」でアカデミー助演女優賞にノミネートされたホリー・ハンター。
第3話 「ローズのための誰か」
主人公は15歳の息子を溺愛するシングルマザー。
演じているのは「ライト・スタッフ」「サイダーハウス・ルール」のキャシー・ベイカー。
第4話 「おやすみリリー おやすみクリスティーン」
主人公は不治の病に冒された同性愛の恋人と暮らす女性占い師。
演じているのは「アリーmyラブ」のキャリスタ・フロックハート。
第5話 「キャシーを待つ恋」
主人公は女刑事を姉に持つ盲目の美女。
演じているのは(説明なんかいらない)キャメロン・ディアス。
一見なんの脈略も関係も無い5人に見えるけれど、実は何人かの主人公が別の誰かの脇役として登場する設定になっているのがまず面白かった。
とまれ、映画も小説も作品を面白くする第一の要素は登場人物の設定だが、この作品に限って言えば設定に捉われない日常の描き方が見事だったと思う。
それは“特別な誰か”の日常ではなく、女性なら誰にでも起こり得るエピソードを、たまたまこの5人を通して描いただけで、女性客にとっては近しい誰かの話を聞いているような、あるいは自分のことを客観視しているような、そんな錯覚を覚える映画じゃないかと思う。
それでも、観客はときどき「ああ、やっぱりこれは映画なのだ」と思い出す。なぜなら、ガルシア監督がふとした瞬間に、息を呑むほど詩的で美しい映像を切り取って本編に挿入するからだ。これぞ映画の醍醐味、である。
さて、この作品のタイトルが言う「彼女を見ればわかること」はなんだろう?
この答えはきっと観客の数だけある。
男の僕が観て思ったことは、他人からは幸せそうに見える人も、本人は決して幸せじゃなかったりする、ってこと。
当たり前の話だけど、幸福と不幸は表裏一体で、しかもそれを決めるのは他人じゃなく、自分自身なのだ。
オトナの女性は必見の佳作。
この作品を観てアナタは何が分かるのか、試してみてください。
最後に。
この作品は5人のハリウッド女優の競演だけでも充分見ごたえがあります。
中でも群を抜いて素晴らしいのは盲目の女性を演じたキャメロン・ディアス。「イン・ハー・シューズ」の演技など霞んで見えてしまうほど感動的な演技を披露しています。
- 出版社/メーカー: 日活
- 発売日: 2002/01/25
- メディア: DVD
不都合な真実 [2006年 レビュー]
パラマウントの試写室で観る。
仕事がらみではあるがこの作品は大いに興味があった。
これは温暖化による地球の危機を訴える元アメリカ合衆国副大統領、アル・ゴアの姿を追ったドキュメンタリー映画である。
僕はこのタイトルが好きだ。
本作を観れば、これ以上ない素晴らしいタイトルだと誰もが思うだろう。
しかし作品自体にはもう少し手を加えるべきだったと思う。
アル・ゴアが講演会で訴える内容は世界中の人間が耳を傾けて聞くべき、極めて重要かつ深刻な問題ばかりだ。ところが、この作品自体にも重大な問題点がある。
まず「講演会の模様が長過ぎる」という点だ。
確かに本作品において講演会の内容は最も重要な項目である。しかしこれはドキュメンタリー映画であって、フィルム講演会ではない。
そしてもうひとつ。ドキュメンタリー映画としては欠落しているものがある。
それは「主人公の葛藤」である。
アル・ゴアが闘う相手は地球上に存在する“すべての消費者”だ。
地球温暖化の原因を作る“消費者”こそ彼の敵なのだが、“敵”はこの映画を観ている“観客”でもあって、まるで身内に敵がいるようなものだから、ゴアのコメントは誠に歯切れが悪い。この歯切れの悪さが映画全体の切れ味の悪さにも繋がっているように思う。ではこれを打開するためにはどうすべきだったのか。
“消費者”を“敵”に出来ないのなら、“生産者”を“敵”にするべきだったと思う。
アメリカは利権のためなら大統領をも殺す国だ。
おそらくアル・ゴアにも相当の圧力がかかっているだろう。その圧力と戦う姿をなぜ織り込まなかったのか、僕には不思議でならない。
地球が破滅するかもしれない由々しき事態に、それでも金に固執する愚かな大人が世の中にはゴマンといるのだ。これを真正面から訴えても良かったのではないか。僕はそう思う。
そうは言っても、この作品は一見の価値がある。
劇中明らかにされる驚くべきデータの数々は、多少ではあっても確実に我々“消費者”の意識を変えるだろう。
もちろん気がついたすべてのことを行動に起こすのは難しい。
僕だってオープン2シーターからハイブリット・カーへの乗り換えは躊躇する。でも出来ることから始めることが大事なのだ。
出来ることからはじめること。
「まずはこの映画を観に行って欲しい」
僕の最初の一歩はこの一言から始まる。
犬神家の一族 [2006年 レビュー]
第19回東京国際映画祭クロージング作品。
昨年の「力道山」とは比べ物にならないくらい華やかな舞台挨拶でした。
でもどれだけ美しい女優が顔を揃えようと、この日の主役は完全に市川崑監督だったと思います。齢90にして長編映画を撮るなんて並大抵のパワーじゃありません。しかも上映を前にして「いろんな批評を聞かせて欲しい」とまで言い切る真摯な姿勢に僕はとても感動しました。
さて。
松嶋奈々子が意外とコメント下手だったことに驚いたほかは別段面白いこともなく、淡々と進んだイベントのあと会場が暗転してまもなく僕はふと、こう思いました。
「そもそも、なんで犬神家をリメイクしたんだ?」
というのも映画の冒頭、スクリーンに「角川映画30周年記念作品」の文字が大きく浮かび上がったからです。
きっと往年の角川映画ファンは「なんで今、犬神家???」と大勢の人が思ったことでしょう。
僕もその経緯はまったく知らなかったのですが、調べてみたら分かりました。
今年の1月27日に開かれた製作発表会見の席上、角川映画の現社長である黒井和男さんがこう話していました。
【一瀬隆重プロデューサーから「市川監督の映画をつくりたい」と相談を受けて、市川監督に何を撮りたいか聞いてみたら、「横溝正史をまたやりたい」と言われました。
それで、横溝さんのどの作品を映画化するか色々と考えてみたんですが、「最初に戻って『犬神家の一族』をリメイクしてはどうか」という話になり、市川さんにお願いしたら「いいよ、やるよ」と言われて今回の話が決まったんです。】
しかしこのリメイク版、30年前オリジナルを劇場で観た世代にとっては複雑な思いでした。なぜなら最も多感な時期に見た「犬神家の一族」はあまりに衝撃的な作品だったからです。豪華なキャストも、驚きのストーリーも、島田陽子のオッパイも(笑)。
冗談はさておき、考えてみたらオリジナルが公開された1976年って、戦後31年しか経っていないんですね。そんな時代に昭和22年の物語はまだ違和感もなかったんでしょうけど、戦後61年を迎えた今年、このリメイクが若い世代に受け入れられるかどうかははなはだ疑問。なんと言ってもホントに“完全コピー”のリメイクですから。
実を言うと、オリジナル世代の僕はリメイク版に対して、密かにある期待をしていました。
それは「オリジナルとは違う別のエンディング」。
僕は心のどこかでやはり「リメイクの意味」を探っていたんだと思います。リメイク版を興行的に成功させるためには、かつての客も、新たな客も満足させられる作品に仕上げることが必須。だからたとえ「別のエンディング」でなかったとしても、プロデューサーとしてはゼッタイに「なにか」を仕掛けなければいけなかったんです。
もし万が一、本作の興行収入が伸び悩むようなら、これは完全に一瀬隆重氏の責任と僕は断言します。僕自身は今の段階ですでに「一体何のためのリメイクだったんだ?!」と一瀬氏に詰問したいのだけど。
ついでに、どうしても言いたい細かい話をひとつ。
佐武(葛山信吾)と佐智(池内万作)のキャスティングは大失敗。キャラが被ってて最悪でした。
そして最後に。
「市川監督!次回は下心のない真面目なプロデューサーと組んで、ぜひもう1本面白い“写真”を撮って下さい!よろしくお願いします!」
ファウンテン [2006年 レビュー]
第19回東京国際映画祭 特別招待作品
ブラッド・ピット&ケイト・ブランシェット主演で製作される予定だった作品が、ヒュー・ジャックマン&レイチェル・ワイズの主演で完成。全米公開より前に東京国際映画祭にやって来た。
この作品、魚河岸おじさんがチケットをゲットしたにもかかわらず行けなくなったと聞いて、公式ガイドブックをチェックしたら、なるほど面白そうな作品だったのでスケジュールがぽっかり空いたのをいいことに六本木ヒルズへ行ってみた。
ちなみに公式ガイドブックの解説はこうでした。
『永遠に生きられるとしたら、あなたはどうする?愛する女性を救おうとどこまでも戦う、一人の男の壮大な物語「ファウンテン」。
彼の長い旅は、16世紀のスペインでスタートした。そこでは征服者のトーマスが、不死を約束すると信じられている、ファウンテン・オブ・ユース(若さの泉)の捜索を開始していた。
現代に生きる科学者トミー・クレオは、愛する妻イザベルの命を奪おうとしている癌の治療法を探していた。
26世紀の宇宙飛行士のトムは、千年の間思い続けていたミステリーの答えを得ようとしていた。
やがて、3つの物語は、異なる時代を生きるトーマスの一つの真実として収束されてゆく。
奇才ダーレン・アロノフスキー監督が、「ニューヨークの恋人」「Xメン」のヒュー・ジャックマンと「ナイロビの蜂」でアカデミー賞受賞のレイチェル・ワイズ主演で贈る、<永遠の愛>を探す物語』
おもしろそうでしょ?僕はちょっと期待しちゃいましたねえ。それが大失敗だったんですけど(笑)。
とにかく複雑な編集が施してあって良く判らないっす。ついでに観ている最中「で、26世紀の宇宙飛行士ってどいつだよ」って思ってたんですけど、「えええ!オマエがそうなのぉぉぉぉぉぉ!」と大ビックリ。アタシャただの宗教家かと思いましたよ(観ればこの意味が分かります・笑)。
いや~雰囲気のいい写真(前出)にダマされて行ってみたら、エライ目にあっちゃいました。
とにかく変わった映画です。
そう思って観れば許される映画かも知れません。
ちなみに日本での公開は来年、2007年の秋だそうです。
………おそすぎだろっ!
父親たちの星条旗 [2006年 レビュー]
まずこの作品は、硫黄島を舞台にして日米双方の視点で2本の映画を作ることにしたアイディアを称えよう。そしてこの画期的な企画の実現に尽力したすべての人たちに拍手を送りたいと思う。作品の評論はそれからでも充分だ。
2006年10月21日。
全米公開から遅れることわずか1日。一般公開に先駆けて渋谷オーチャードホールにかけられたこのフィルムは、東京国際映画祭のオープニングを飾るに相応しい1本だったと思う。
残念ながら監督の来日は「硫黄島からの手紙」の編集のため叶わなかったけれど、それでもこの作品が今年の目玉であることは間違いなかった。
とは言うものの…。
戦争写真として最も有名な「1枚の写真」と日本の「硫黄島」がすぐさま結びつく日本人が、戦後61年の今、はたしてどれくらいいるだろう。
例えばこういうことだ。
【問題】以下の写真を「硫黄島」という言葉を使って300字以内で説明しなさい。
Joe Rosenthal (1911-2006)
この答えを出せない日本人は僕を含めて決して少なくないと思う。しかしこの答えを導き出せないと「父親たちの星条旗」は楽しめない。
クリント・イーストウッドという監督は“アメリカ人のためにしか映画を作らない”人である(「許されざる者」の項参照)。それ以外の国の人間が彼の映画を理解しようと思ったら必要最低限の知識を持つしかない。
そこで模範解答である。
『太平洋戦争末期。日本攻略の重要な拠点としてアメリカ軍が手中に収めようとした島、硫黄島。アメリカ軍は5日で落とせると読むも、日本軍の激しい抵抗に遭い激戦は約1ヶ月に渡った。
抵抗する日本軍は島で一番高い“摺鉢山”を防衛要塞としていた。ところがアメリカ軍は上陸から4日目にこの頂上に到達。戦意高揚のため星条旗を打ち立てる。
その様子を撮影したのはジョー・ローゼンタール。AP通信の従軍カメラマンによって偶然撮影された1枚はこの年のピューリッツァー賞を受賞し、のちに世界で最も有名な戦争写真となる』
これを踏まえて本題に入ろう。
「父親たちの星条旗」はこの1枚の写真に隠された“秘密”をひも解く物語である。
誰もが一度は目にしたことのある「有名な1枚」がもたらした人間模様。その事実はあまりに興味深く、そしてあまりに悲しい。しかしウィリアム・ブロイルズ・Jr、ポール・ハギスによる脚本と、クリント・イーストウッドの演出はかなり淡白だったように思う。
ここで言う「淡白」は僕にとって「失望」に等しい。
僕はこれが、良く言えば「作り手の主張を押し付けない」、悪く言えば「救いのない映画を作る」イーストウッドの持ち味であることを充分理解しているつもりだ。それでもあえてこの映画を批判するのには大きな理由がある。
それはこの作品が現時点で「最後発の戦争映画」であるだからだ。
大戦後、勝戦国も敗戦国も数多くの戦争映画を作ってきた。
中でも大戦以降、ベトナム、湾岸、イラクを経験したアメリカのその数は他国の比ではない。
当然題材も千差万別だが、どれだけスタイルが変わろうと幾多の戦争映画が訴えてきたテーマは「戦争がもたらす悲劇」、ただこの一点である。逆に言えばこのテーマ以外で戦争映画を作ることなど出来ないのだ。
大テーマが普遍の真理なら、小テーマに変化をつけてオリジナリティを出すしかない。
つまり、これまでに戦争映画を作ってきた人たちは皆、戦争がもたらした悲劇のドラマを新たに発見した(あるいは創作できた)からこそ、戦争をテーマにした映画を作ってきたというわけだ。もちろん今回のイーストウッドもしかりである。
しかし。
僕は「父親たちの星条旗」を観ながら途中うんざりしていた。一番はデジタル技術を駆使して作られた生々しい戦闘シーンである。
例えば「プラトーン」や「フルメタル・ジャケット」や「プライベート・ライアン」や「バンド・オブ・ブラザース」のそれと一体何が違うのか僕にはまったく分からなかった。そこへ持ってきて淡白なドラマの演出である。
「最後発の戦争映画としてこれでいいのか」と僕は激しく思った。
観終わったあとで「やっぱり戦争はしちゃいけないんだな」程度の大雑把な感想しか持てない作品で終わっていいのか?
良いわけがない。
本作品最大のウリは、1枚の写真が世界の歴史を大きく変えた、という事実である。
“歴史が動く瞬間をドラマティックに描くこと”
これが「父親たちの星条旗」に与えられた使命だったと僕は思う。
この映画を一緒に観た魚河岸おじさんは「これをオリバー・ストーンが作ったら…」と言った。
興味深い一言だった。
僕は本作の映画化権を持っていたスピルバーグが監督だったら…と思った。
どちらも想像のゲームでしかないが映画マニアの酒飲み話としては充分におもしろい話だ。
繰り返すが、同じ舞台で2本の映画を作ったクリント・イーストウッドのアイディアは賞賛に値する。だから魚河岸おじさんがそうしたように僕も「硫黄島からの手紙」を見てからもう一度レビューを書こうと思う。
アメリカ人のためにしか映画を作らないクリント・イーストウッドが撮った「日本から見た硫黄島」は果たして誰のための映画なのか。第2部に対する興味は尽きない。公開が楽しみだ。
氷の微笑 [2006年 レビュー]
今日の今日まで観てなかったこの映画を仕事の都合でやむなく観てみる。
これは当時「シャロン・ストーンのヘアが見える」ってことでやたらと評判になった記憶がありますが、だからって「なにぃ~、シャロン・ストーンとやらのヘアが見えるぅ~?!」って映画館まで走っていった人がどれくらいいるんでしょうか?(笑)
僕がこの映画を観なかった理由はそんなことばかりが話題になって、内容に関するウワサがまったく耳に届かなかったからだと思います。で、今日は「そうは言っても実は意外と面白い作品なんじゃないのぉ?」と密かに期待をして観てみました。
んがっ!やっぱりシャロン・ストーンの裸以外に何の見どころもないヘタレ映画。なんじゃこりゃ、です。
しかも何を思ったかこの続編が今頃製作され今年全米で公開されたそうです。が、さすがに興行成績は芳しくなかったとか。
「氷の微笑2」 日本では11月11日から公開。でも何を期待しろって言うんだ?
流れる [2006年 レビュー]
「流れる」(1956年・日本) 監督:成瀬巳喜男 原作:幸田文 脚本:田中澄江、井手俊郎
これは当代きってのスター女優が「これでもか、これでもか!」と登場する東宝のお家芸のような映画です。
田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子、中北千枝子、杉村春子、岡田茉莉子、栗島すみ子…。
僕は「まあ次から次にぞろぞろ出てくるなあ」と思いながら観ていたんだけど、途中ではたとあることに気がついた。
「これだけの女優が揃いながらドラマがまったくくどくない」
僕が男だからでしょうか、女優だらけの映画って妙に“お腹一杯”になっちゃうんですよ。
でもこの作品に限ってそうならなかったのは「キャラクターが全員立っていた」からだと思います。
ふとフランソワ・オゾンの「8人の女たち」を思い出しました。
この作品のキャラクターはビジュアル的な差別化は図られていたと思います。世代も人種も職業も適度にバラつきを持たせてあって、まずまず面白かった。なのに僕の中に「くどい」という印象が残っているのは、人格の作りこみが完璧じゃなかったからだろうと思います。判りやすく言うと、「ところどころゆるいセリフがあった」ということ。
大勢の俳優が登場する作品では、誰が言ってもいいセリフを特定の誰かに言わせてしまうと、そのキャラクターの個性は失われてしまいます。
その点「流れる」の登場人物たちはひとりひとりの個性が立っていて、セリフの内容にも迷いが無い。それどころかセリフがキャラクターの枠からはみ出すことなく、目をつぶって聴いても登場人物を見失わずドラマが楽しめるほどでした。これは原作と脚本がいかに優れているかの証です。
とは言っても、やはり成瀬の演出手腕も恐るべし。
女性の心理描写にかけては小津も黒澤も足下に及ばず。名だたる女優の名演技を引き出す才能は脅威の一言。
成瀬作品がなぜ女性に人気なのか。この1本で分かったような気がします。
トランスポーター 2 [2006年 レビュー]
「トランスポーター 2」(2005年・仏/米) 監督:ルイ・レテリエ 脚本:リュック・ベッソン他
前作はおもしろかった。でも2作目はヒドイっすよ。もう「ありえねー!」の連発です。
ちなみに本編のあと予告編を見直したら、予告編の中だけでもジェイソン・ステイサムは6回死んでます。フツーなら。
アクション映画の醍醐味は「絶体絶命の局面をいかに打開するか」が重要な見どころなんですけど、そこに無理があるとドン引きしますわね。いや、それを笑える人はオトナだと思います。でも僕は無理です(笑)。
文句ついでに言わせてもらいますが、「トランスポーター」は裏家業の運び屋という設定が面白いのに、今回はそのシークエンスもありませんでした。本編88分しかないんだからあと5分プラスしてそのシーンも織り込めばいいじゃん。本職のシーンを織り込まないなんて、教壇に立つシーンの無いインディ・ジョーンズみたいなもんですよ。それがなきゃ「そもそもオマエって何者だっけ?」って思うでしょ?
ま、パート3はないだろうなあ。ジェイソン・ステイサム主演映画が一本なくなるのは寂しいけど。
山の音 [2006年 レビュー]
「山の音」(1954年・日本) 監督:成瀬巳喜男 原作:川端康成 脚本:水木洋子
久し振りに風邪をひきました。
風邪をひくと昔は家族が優しくしてくれて、イチゴだのチョコレートだのパイナップルの缶詰だの普段食べつけないものを食べられるのが嬉しかったのですが、今は仕事を休んで映画を観られるのが一番嬉しいかも知れません。
結婚まもない修一(上原謙)と菊子(原節子)だが、修一には絹子という愛人がいた。愛人の存在を知りながら菊子が耐えていられたのは、同居している夫の両親、特に舅の信吾(山村聰)が何かと菊子のことを気にかけてくれているからだった。
息子の女遊びを知りつつ強く言えない父。そんな家に嫁に出た長女が乳飲み子を連れて出戻ってくる…。
小津も成瀬もそうですが、この頃の映画は「家」をテーマにしたものが多いですね。
この作品も完全に「家」が舞台で、よくもまあここまで真正面から「家族」を撮ったもんだなと感心します。今なら「渡る世間は鬼ばかり」くらいしか、こういう作品は見ませんから。
見どころは「耐える女の生涯」です。
時代背景を考えると、菊子は随分思い切ったことをする女性として描かれているような気がしますが、でもだからこそ映画として成立しているんでしょうね。
映画の中での揉め事自体は別段驚くようなことじゃありません。“お隣の尾形さんちのゴタゴタ”くらいにしか思えないので観ていても「勝手にやってくれよ」という気がしないでもないのですが、家族内の微妙な人間関係こそが川端康成の書きたかったことなのでしょう。
しかし成瀬の見事なところは、エンディングのまとめ方です。
本作は多くの観客が想像したとおりの結末を迎えるのですが、最後の最後に実に気の利いたセリフがあるのです。これこそが小津や黒澤にない成瀬の持ち味かと思いました。
家族の物語はどんなに内容が残酷でも、映像のどこかに温かみがあります。
「誰かの子供でいられる時代が人にとって一番幸せな時代」
これは僕の持論ですが、こんな映画を観てもそう思ったのは、僕が独りで病んでいたからでしょうか。
めし [2006年 レビュー]
「めし」(1951年・日本) 監督:成瀬巳喜男 監修:川端康成 原作:林芙美子
今じゃ考えられないタイトルにのけぞりますね。
「食事」でも「ごはん」でもなく「めし」ですから(笑)。こんなタイトルでどんな内容かと言うと、大阪の下町に住む倦怠期を迎えた夫婦の物語です。
前回の「浮雲」もそうでしたが今回もまったく今に通じる話で、倦怠期を迎えた夫婦で観てしまうと、妙にそわそわしてしまう内容になっています。
なぜそわそわするかと言うと、“連れ合い”に言うに言えない不満や文句がどんどん絵となり言葉になるからで、これはどちらかと言うと1人でこっそり観て、“連れ合い”に対する気持ちを改めるきっかけにした方がいいかも知れません(笑)。
作品としては、まさかこんなことで離婚もありうるか?と観客をヤキモキさせつつ、それでいて納得の着地をさせる脚本が見事。また夫に対する不信の原因となった姪の行動を、妻自身も取ってしまっているという展開も絶妙でした。
ラスト近く。夫婦で飲むビールを一方は「苦い」と言い、一方は「うまい」というシーンに、僕は成瀬巳喜男の「夫婦観」を観ました。
妻に対する負い目をなんとなく感じているダンナさんは必見(笑)。