大怪獣ガメラ [2007年 レビュー]
何をトチ狂ったかとお思いでしょうが、ガキの頃に大好きで観ていたガメラシリーズをwowowがすべて放送すると言うので、その記念すべき1作目を今回初めて観てみました。
まあ古い(しかも怪獣)映画ですからね。オープニングから笑えます。
北極のエスキモー村を東京大学の動物学者(船越英二)訪ねるシーンから始まるのですが、これが書き割りを背景にしたベタベタのセット撮影。エスキモーの老酋長を演じるのは当時バイプレイヤーだった吉田義夫。完璧日本人顔のオッサンが「じす、いず、あ、ぺん」的なカタカナ英語を喋るもんだから、もう笑わずにはいられません。あー笑っちゃダメね。当時は全員マジメに作ってんだから。特撮も今となってはガンプラのジオラマ以下で大笑い。だから笑っちゃダメなんだってば。
そもそも「ゴジラ」の“二匹目のどぜう”を狙って製作されてますから、ガメラ誕生のいきさつだって完全にパクリ。
突如、北極圏上空に現れた謎の無国籍機が4機。米軍機が出動し交信を試みるも反応は無く、やむなく撃墜したらその機体は原爆を積んでいたらしく北極圏にきのこ雲が上がります。
でも、問題はこのあと。
原爆の影響で北極の氷が溶け、永年氷の中で眠っていたガメラが目を覚ます…。
は?溶けた氷の中から出て来たってこと?
…じゃあ、原爆じゃなくてもいいんじゃん!(笑)。
しかも謎の無国籍機はストーリーに一切関係なく、撃墜したらほったらかし。なんじゃそりゃ!
と言いつつ、子供の頃には観られなかった(だって公開時はまだ2歳だったし)記念すべき第1作、いろいろ楽しませてもらいました。
他のシリーズは…多分観ないと思います(笑)。
ザ・プレイヤー [2007年 レビュー]
「ザ・プレイヤー」(1992年・アメリカ) 監督:ロバート・アルトマン 原作・脚本:マイケル・トルキン
以前、「今宵、フィッツジェラルド劇場で」を観ようとネットで情報検索していたら、ロバート・アルトマン作品ではこの「ザ・プレイヤー」が傑作だという記事を目撃してしまった。
別に「今宵~」を観ようとしてたんだから、素直にそれを観ればいいものを、観ようとしていた監督の聞いたこともないタイトルを、しかも「傑作」と言われてしまうと、つい手を出したくなる…。
これは最近の僕の特徴です。
例えば「行定勲シリーズ」のように1人の監督に執着したり、「裕次郎シリーズ」あるいは「キングコング新旧3本見比べ」なんて独自の企画を立てて、今年はホント沢山の旧作を観ましたねぇ。でもこれって独り善がりな企画なんですよ。だって「キングコング」なんて未だに1件のコメントも付いてませんから(笑)。はたして皆さんの役に立ってたのでしょうか。今年の「ナニミル?」は。
「ザ・プレイヤー」はハリウッドの舞台裏をシニカルな目線で描いた群像劇です。
主人公はある映画会社の脚本担当重役グリフィン(ティム・ロビンス)。彼のところに脅迫めいた絵葉書が届くようになり、その差出人を探し始めたところから物語が始まります。その過程で映画会社の社長、ヘッドハンティングされた重役、売り込みに必死な脚本家、そして実名でカメオ出演する数々の俳優など、ハリウッドに巣食うあらゆる人間が次から次に登場するのですが、いかんせんこれはマニア向け映画。業界の実情を知らなければ、何を面白がればいいのかすら分からない作品だと思います。
言い換えるとブラックジョークを笑えない状態と一緒。
笑えないのは自分にその知識が無いからなんだけど、笑えないジョークの意味をあとでわざわざ確認するのもダサい気がするんですよね、僕は。だからハリウッドにすごく興味があって、分からない言葉の意味を逐一調べることも厭わない人なら、観てもいいと思います。でないとアルトマン監督の演出意図は汲み取れないでしょう。
冒頭約8分間の長回しは良かったんですけどねえ。余計な期待をして失敗しました。
そういや「ショート・カッツ」もイマイチだと思ったんだよなあ。僕とアルトマンとの相性が良くないのかしら?(笑)。
JSA [2007年 レビュー]
韓流直前の名作、と認識していた「JSA」を初見の妻と共に観直してみる。
これはのちに「復讐三部作」で名を成すパク・チャヌクの監督デビュー作でした。
南北分断は韓国映画ならではの大テーマ。
韓国での興行成績ランキング(韓国映画のみ。2006年末データ)を見ると、そのうち半分は対北朝鮮がテーマ(★印)になるくらいの「鉄板ネタ」なんですね。
1位 グエムル 漢江の怪物
2位 王の男
★3位 ブラザーフッド
★4位 シルミド
5位 友へ チング
★6位 トンマッコルへようこそ
★7位 シュリ
8位 頭師父一体2
★9位 JSA
10位 殺人の追憶
日本人が南北分断ネタの面白さを知ったのはもちろん「シュリ」。
その興奮冷めやらぬ翌年日本上陸した「JSA」は「シュリ」以上に緊張感の高い題材だっただけに、当時の僕たちはいささか過大評価した感がありますね。と、言うのも今回改めて観てみたら「映画としてのクオリティは決して高くないな」と思ったのです。
一番は脚本の構成が上手くない。
冒頭38度線の共同警備区域(JSA)で射殺事件が起きる。ドラマの縦軸はこの事件の真相を解明していくことなんですけど、まず「事件の謎」そのものが整理されていないのです。それが無いまま中立国監督委員会から派遣された捜査官(イ・ヨンエ)の説明に時間を費やしてしまうために、観客はストーリーの波にうまく乗れないまま勝手に進んでいく印象を受けてしまう。
事情聴取から回想へと進む展開も否定はしませんが、途中何度か事情聴取のシーンに戻す必要があったと思います。イ・ヨンエのセリフを借りて事件の矛盾点を整理していけば、観客はもっと謎解きに入り込めたと思うんですけどね。
改善すべき点はたくさんある映画ですが妻は充分楽しんでました。残酷なシーンを除いて。
ただ人の名前が覚えられないとアウトな映画です。交流する南北の兵士たちが「兄貴」と呼ぶシーンがやたら多くて名前を覚えにくいにも拘わらず、肝心なところで兵士の名前がひょいと語られるのです。皆さんも心して観て下さい。
個人的にはイ・ヨンエに見とれてたら終わった感じ。彼女のコスプレ映画と言ってもいいかも知れません。不純だけど(笑)。
ラストショットではパク・チャヌクの非凡な才能を見ることが出来ます。思い返せばいい伏線が引いてありました。
ロード・オブ・ウォー [2007年 レビュー]
2007年の個人的ベストワン作品「ブラッド・ダイヤモンド」のアナザーサイドと言ってもいい秀作。
ノンフィクションをベースにアンドリュー・ニコルがオリジナル脚本を書き、ニコラス・ケイジがウクライナ出身の武器商人を演じています。
映画や小説ってヤツはおもしろいもんで、主人公がどんなに悪党であっても「人間としての生き様」を僕たちは目撃するわけですから、ついつい入れ込んじゃいますよね。警察から追われてりゃ「逃げ延びろ!」って思うし、同じ悪党に殺されかけたら「先にやっちまえ!」って思う。
この作品もそうです。
主人公のユーリーが撃たれそうになったり、インターポールに追いかけられたりするといちいちハラハラする。そしてその都度「助かってくれ!」と願っている自分がいます。
ところが、ユーリーが調達した武器の代金をダイヤモンドで払おうとする連中が出てきた瞬間に僕は引きました。それは前出の「ブラッド・ダイヤモンド」を観ていたからです。その瞬間からさすがにニコラス・ケイジには肩入れ出来なくなりました。
でも。
じゃあどうしてこんな役をニコラス・ケイジは引き受けたんだろう?と思うわけです。
ハリウッドの大スターです。突拍子もないいろんな役をやる俳優だとは言え、役柄が与えるイメージの影響だって考えなきゃいけない(「ゴースト・ライダー」なんか引き受けるくらいだから、本人もエージェントも無頓着なのかも知れないけど)。なんだってこの役を?と思っていたら意外な結末が待っていました。
それは大いなる皮肉。
胸のすくエンディングじゃないけれど、納得感の高い結末でした。と、同時にニコラスがこの役を引き受けた理由も分かるのです。
「求められるからやるんだ」
ストーリーとも関係するこの理由は、紛争ダイヤモンドの登場によって引いてしまった僕の気持ちを再び引き寄せるに十分なものでした。
R-15は必然。
軍産複合体の一端を垣間見てしまう強烈な1本です。
ギルバート・グレイプ [2007年 レビュー]
「ハルストレムを語る上では欠かせない」といろんな人から言われた、スウェーデン出身監督のハリウッド進出2作目をようやく観ることが出来ました。
ちなみに脚本のピーター・ヘッジスは「聞き覚えのある名前だな」と思ったら、この9年後に「エイプリルの七面鳥」で監督デビューする人でした。
ギルバート・グレイプは主人公の名前。
タイトルロールを演じるのは当時30歳だったジョニー・デップ。
その弟で18歳になる知的障害児を演じているは、本作でアカデミー助演男優賞にノミネートされたレオナルド・ディカプリオです。
本作の評判を聞くとき必ず言われるのがディカプリオの演技。確かに素晴らしいです。ときどき健常者の顔がちらりと出てきてしまうのが惜しいのですが、少なくとも「I am Sam」のショーン・ペンよりいい。
ジョニー・デップはのちのキャリアを考えるととても地味な役柄を演じています。そんな彼を観ながら感じたのは「この映画に対する評価はなぜ高いのか?」という点でした。
というのも、個人的には手放しで褒められるほど優れた作品だとは思えなかったからです。
例えば1年後、「これってどんな映画なの?」と誰かに聞かれても、僕はうまく説明する自信がありません。それくらい引っかかりの無いストーリーなのです。
そこが「ハルストレムらしさ」と言えなくもないのですが、他の作品に比べてこれだけが決定的に掴みどころの無い、にゅるっとした作品に仕上がっているのです。僕はこの反省がのちのちの作品に生かされているように思います。
「事件は最後に起きたんじゃダメなんだ」
そう気付いたかどうかは分かりませんが、これ以降の「サイダーハウス・ルール」、「ショコラ」、「シッピング・ニュース」ではその教訓が生かされていると思います。
では、この作品が概ね高評価を得る理由はどこにあるのか?
それはこの映画には悪人が出て来ないだけでなく、登場人物全員が見事なまでに「純粋」な人たちだからでしょう。
ギルバートと不倫関係にあるベティの夫だけが唯一即物的なキャラクターかと思いきや、実は彼こそ極めて純粋な人間だったという徹底ぶり。つまり誰からも嫌悪感を抱かれることの無い、完全無菌、人畜無害の映画だからじゃないかと思います。
また、ハルストレムが得意とする「小さなコミニュティのエピソード」は「世界が100人の村だったら」に似ています。「その中には自分も含まれている」と観客に思わせるのが巧いんですね。人間なら誰もが持っているさまざまな“弱点”を、登場人物たちに抱え込ませているのも、共感を生むポイントだと思います。
個人的にこれがハルストレムの最高傑作だとは思いません。ただし「小さな枠組みからの脱出」と「家族解散」をテーマにした作品の中では佳作の部類に入ると思います。
まず一度観ておいて、そのあと何かの折に観てみてみると新たな感動があるかもしれない不思議な作品。
ロレンツォのオイル/命の詩 [2007年 レビュー]
僕はいま、AIDSとは違う“ある病気”の取材をしているのですが、その相談に乗ってもらった知人のドクターに「観るといいよ」と薦められた一本。
これは不治の病と言われている副腎白ジストロフィーに侵された息子を救うため、医者に頼らず独自で治療法を見出したある夫婦の“闘いの日々”を描いた実話です。
とんでもなく凄いハナシなんです。
医者もさじを投げた病気の治療法をズブの素人が見つけるってハナシなんですから。
でも、何故か胸が熱くならない…。
“ある仕掛け”が施されたエンドクレジットではさすがにウルっと来ましたが、本編ではダメだったんです。
それはなぜか。
母親役を演じたスーザン・サランドンのせいだったと思います。正しくは「脚本」ですけど。
難病に侵された息子、ロレンツォは発症からまもなく介護が必要な状態になります。父親(ニック・ノルティ)は図書館に籠って病気に関する文献を読み漁る毎日。その一方で母親(スーザン・サランドン)は息子のそばを片時も離れず献身的な介護を続けます。介護生活は何年にも渡り、途中付き添いの看護婦も根を上げるような状態の中、最後まで母親だけが“壊れない”のです。
僕は介護生活を経験しました。
実に短い期間でしたがその生活は深い深い苦悩に満ちたものでした。
そんな生活の中で精神のバランスを失いつつあった母や妹を見ていた僕は、スーザン・サランドンの姿がリアルに見えなかったのです。
「本当なら彼女も壊れているはず」
そう思ったら、冷ややかな目でしか見られなくなってしまいました。
ニック・ノルティはミスキャストでしょう。彼はダーティな役が似合う俳優なのでかなり違和感がありました。
この当時のスーザン・サランドンはまだまだキレイでしたね。だからこそ汚れて、堕ちて欲しかった。
「事実」という重みだけが唯一の救いと驚き。映画としては若干散漫な仕上がりで実に残念。
ロレンツォのオイル/命の詩 (ユニバーサル・セレクション2008年第10弾) 【初回生産限定】
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俺は待ってるぜ [2007年 レビュー]
「俺は待ってるぜ」(1957年・日本) 監督:蔵原惟繕 脚本:石原慎太郎
こっそり続いていた日活映画シリーズ(笑)。
本作は「狂った果実」「嵐を呼ぶ男」に続く石原裕次郎主演3作目。
石原慎太郎にとっては4本目の脚本を、「狂った果実」の助監督でのちに「南極物語」の製作、監督、脚本を手がける蔵原惟繕(くらはらこれよし)が初監督しています。
慎太郎の“文学的脚本”も、裕次郎の“セリフ棒読み芝居”もヒドイっちゃあヒドイんですが、まあリアリティなんか誰も求めていない“完全なるアイドル映画”ですからそこは許すとしましょう。じゃあそれ以外のどこを楽しむんだと言われたら、プラピとアンジーの「Mr.&Mrs.スミス」や、竹内結子と中村獅童の「いま、会いにゆきます」と同じで、「あー、こいつらこの映画でデキちゃったんだな」というワイドショー的視点で楽しむのがひとつ。
もうひとつはアーカイブとしてリアル「三丁目の夕日」を楽しむ。本作もわずかですが野外ロケーションのシーンがあって、そこには昭和30年代前半の横浜の様子が切り取られています。もし横浜に縁のある人ならそれらのシーンに何かを発見するかも知れません。
そして古い映画を楽しむ王道と言えば、大物俳優の若かりし姿を見出すこと。
本作にも二谷英明を始め、杉浦直樹、草薙幸二郎、深江章喜、榎木兵衛といった面々が出演しています。この中で一番の掘り出し物は杉浦直樹さんですかね。役目も無くセリフもほとんどない二谷英明の子分役を地味に演じています。
個人的に一番笑ったのは裕次郎の役名。
役柄は元プロボクサー。リング外で人を殴り殺した経歴があり、その事件をきっかけに引退した設定になっているのですが、男の名前が明らかになるのはボクサーとしての経歴を振り返るシーン。ここで試合のポスターや新聞がインサートされるのですが、そこに踊る名前が「島木譲次」。
………。
………。
………。
←?
ああ、この人は島木譲二だった。
でも、裕次郎の殺人パンチは「パチパチパンチ」なのかと思ったら、しばらく笑いが止まりませんでした(笑)。
都知事はこの事実、知ってるかなあ。
ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男 [2007年 レビュー]
1963年生まれの僕はストーンズを聴かずに育った。
「どうしてストーンズを聴かずにオトナになったんだろう?」と思ったのは1990年。彼らが初来日したときだった。
僕の周囲もそりゃ大騒ぎで、当時勤めていた会社の同僚の中には「今日も行く」と言っては会社を抜け出し、翌日「もうダフ屋と顔なじみになっちゃったよ」と笑うヤツもいたくらいだ。
とにかく90年の2月下旬は居心地が悪かった。
どれだけ騒ぎになっていようと僕はダフ屋からチケットを買ってまでライブに行こうとは思わなかったし、けれど周りは「ストーンズ行った?」がまるで合言葉のように繰り返されていたからだ。
あれから15年以上が経ち、ストーンズに関する知識は未だにほとんど無いけれど、それでもこの映画を観ようと思ったのはスキャンダラスなタイトルに惹かれたからだ。
観ればロックスターの堕落には絶対欠かせない「酒・ドラック・女」の三点盛りで、その点について目新しさは何も無かったのだけれど、不思議と最後まで興味を損なわず観ていられたのはオープニングのシーンの作りが巧かったからだと思う。
小さなクラブで演奏する若きストーンズのモノクロ映像から、まもなく夜のプールへとシーンは移る。
ブライアン・ジョーンズの生涯を描くには少し乱暴な時系列の飛躍だが、その落差が観客の興味を惹く。
「ストーンズのリーダーはなぜ自宅のプールで死んだのか?」
本作はオープニングからわずか5分ほどで、テーマと目指すゴールを提示して見せたのである。これは実に観易い作りだったと思う。ストーンズに詳しくない僕のような人間にもプールのシーンから始めたのは“つかみ”として正解だった。
しかしブライアンの半生を描きながら、途中生活を共にしていた建築業者フランクの視点へとずれてしまうのは、あきらかに脚本のブレ。修正の余地は無かったものかと思った。
ロックスターの伝記映画を観たことがない人なら、まずまず楽しめるだろう。
例えば「ドアーズ」や「Ray」を観ている人にとっては、酒・ドラック・女のお約束三点セットに「またか」と思うかも知れない。けれどローリング・ストーンズを作ったブライアン・ジョーンズの死を題材にした実録モノだけに、ついつい前のめりで観てしまうのも事実。
ストーンズを聴かずに育った僕は、若かりし頃のミック・ジャガー、キース・リチャーズがどんな顔をしていたのか知らない。だから似ているのか似ていないのか分からないのが困った。
弓 [2007年 レビュー]
うすうす感づいてはいたんですが、僕はキム・キドクの世界から逃れられなくなりました(笑)。
この「弓」も面白すぎです。
沖に浮かぶ船上で2人きりの生活をしている老人と少女。
釣り客を船に招くことで収入を得ていて、世間との繋がりは陸から釣り客を運ぶ小さな漁船だけ。
生活をしている船はエンジンが壊れていて使い物にならない。
老人と少女は少女の16歳の誕生日に結婚をすることにしていた。
どんな設定やねん!と思いますよね(笑)。でも、キム・キドク作品が面白いのはまずこれらの設定なのです。
僕が今年観た「絶対の愛」も「うつせみ」もそう。現実にはあり得ないだろうと思うような設定なのに、観ているうちにあれよあれよと映画の中に引きずり込まれて行きます。
その理由は何か?
一番は主人公たちが寡黙だからでしょう。
「弓」でも、老人と少女は全く言葉を発しません。
「そこはフツーなんか喋るだろう!」ってシーンでも言葉を発しないので、観客たちは各々が考えたセリフを頭の中で呟くことになります。だから違和感が生まれない。当然です。観客はそれぞれ自分が聞きたいセリフをイメージしているんですから。
「映画は観客に届いて完成する芸術」
とは先人の言葉ですが、キム・キドクの映画はまさにそれ。
例えるなら「きいちのぬりえ」と同じです。
アウトラインこそあれど絵としては未完成。そこに色が加えられることで「ぬりえ」として完成すると言う仕組み。きいちのぬりえもキム・キドクの映画も、客によって完成形が異なる“理想の芸術”なんじゃないかと思います。
わずか90分の作品ながら、まったく想像のつかない展開が緊張感溢れる濃厚な時間を紡ぎだし、あまりにも意外なエンディングが観客の脳裏に「弓」という焼印を押す。
弓を弾くシーンだけは「偽りあり」で頂けないのですが、忘れられない映画になることは必至。
ハン・ヨルムの妖しい存在感も一見の価値アリ。
彼女は菩薩でした。
ライラの冒険 黄金の羅針盤 [2007年 レビュー]
「ロード・オブ・ザ・リング」が完結して以来、その客層をごっそり頂こうといくつかの映画会社がファンタジー映画をリリースしてきた。
「ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女」(2005年)、「エラゴン 意志を継ぐ者」(2006年)、そして年内には「光の六つのしるし」(2007年)の公開も控えている。
個人的には「ロード・オブ・ザ・リング」が完結したとき、「やれやれ、やっと終わったか」と思った。とにかく期間(3年)も上映時間(合計9時間20分)も長くて、いいかげん食傷気味。焼肉を食べた翌日にまた焼肉を食べようと思わないのと同じで、「ロード~」のあとですぐまた新しいファンタジー映画を観ようなんて、そんな欲求は身体のどこからも湧き出てこなかった。だから僕は「ナルニア」も「エラゴン」も観ていない。
「ライラの冒険」は仕事で観ることになった。
しかしニコール・キッドマン、ダニエル・クレイグ、エヴァ・グリーンの名前には惹かれた。
もうひとつ興味深いデータがあった。
BBCが調べたらしい「イギリス国民に過去最も愛された小説調査」というものがあって、その結果がこうあった。
1位 指輪物語
2位 高慢と偏見
3位 ライラの冒険
4位 銀河ヒッチハイク・ガイド
5位 ハリー・ポッターと炎のゴブレット
観ると「ライラの冒険」以外はすべて映画化されている。ではなぜ本作だけが映画化されていなかったのか?
もちろん理由はある。そのひとつが技術的な問題である。
「ダイモン」
劇中の登場人物全員が持つ動物の形をした分身。ダイモンは実体を伴い主人と行動を共にし、コミニュケーションも可能という面白い設定になっている。しかも未成年のダイモンはころころと姿を変える。つまりダイモンを映像化出来るかどうかが、そのまま映画化の可否に繋がっていたと思われる。
肝心のストーリーはというとディティールを省いて説明すると、こういうことになる。
「ある日、12歳の少女が黄金の羅針盤を授かり、世界を変える旅に出る」
まさにファンタジー映画にありがちな設定。ディティールを省いたのはきちんと説明しようとすると長くなるからだ。つまり原作を読んでいない人たちにこの世界観を説明するのは時間がかかるということでもある。だから本作を観る際には設定もストーリーも把握しておいたほうがいい。僕自身、ある程度認知した上で観たつもりが、正直序盤の展開の速さにはついて行けなかった。
さて評価はというと、ストーリー展開については別段語るべきものが無い。本作も「ロード~」と同じく3部作で、その1作目は単なる“種まき”でしかないからだ。唯一言えるとしたら目的が明確だった「ロード~」の方がまだ観易かったと思う。
ダイモンの映像については驚きも満足もない。特に哺乳累系動物は完成度が低く、どちらかと言えば不満が残る。
ただしダイモンという設定だけは、子供たちにかなりウケると思う。自分の分身が動物(あるいは昆虫)でそれと会話が出来るというだけで夢がある。日本版公式HPには自分のダイモンを探せるページがあるので、興味がある人はやってみるといい。
主演のダコタ・ブルー・リチャーズ。
12,000人の中からオーディションで選ばれたと言う新人。この子の表情がカットによってまるで違うのが観ていて楽しい。
恐ろしく美人に見えたり、ただの痩せた子供にしか見えなかったり。フツーの子供が女優になっていく過程は確実に記録されていて、10年後には貴重なフィルムになっているかも知れないと思った。
結論。
オトナが1人で観るものじゃないかも。オトナはもっと他に観るべき映画がある。
ライラの冒険 黄金の羅針盤 コレクターズ・エディション(2枚組)
- 出版社/メーカー: ギャガ・コミュニケーションズ
- メディア: DVD