原爆の子 [2010年 ベスト20]
「原爆の子」(1952年・日本) 監督・脚本:新藤兼人
今日僕は、フツーの人よりちょっとだけ多く映画を観てるからって、なんだか知ったかぶりしている自分がすごく恥ずかしくなった。僕はこの映画のことを知らなかった。そんな僕が言うのは心苦しいけれど、これは日本人としてゼッタイに観なければならない極めて重要な1本である。
なによりこれは、戦後はじめて「原爆」を直接取り上げた映画だということ。
公開されたのは1952年8月7日。広島に原爆が投下されて丸7年後の同日である。実はこのタイミングにも重大な意味がある。
1952年4月28日。日本は7年に渡るGHQの占領地政策が終了し、主権を回復した。
それまで商業映画、演劇の類はGHQに台本や大意を提出し、認められなければ原則不可という時代である。当時東宝で芸能担当だった森岩雄さんの手記にはこんな1文がある。
「CIE(占領軍)は日本の民主化に必要な宣伝啓発に資する劇映画の製作を勧め、単なる娯楽映画の製作を喜ばない傾向があった」
そんな時代に反戦、反核を謳う映画をGHQが許すはずなかった。ましてや「原爆投下は戦争の早期終結に極めて重要な一手だった」とする国である。新藤兼人もひたすら静かに好機を待っていたに違いないのだ。そして占領政策は終わり、映画は作られた。
本作の公開にアメリカが苦虫を潰したであろう様子は、翌53年に起きた事件で分かる。
「原爆の子」はカンヌ国際映画祭に出品されることになるのだが、アメリカからの圧力がかかり、日本の外務省が受賞妨害工作を試みたのだと言う。驚くなかれ日本の外務省が、である。
そんな作品を、いくら時間が経過しているからとは言え、日本人が知らなくていい理由はない。新藤兼人の執念を、画面の端々から感じ取って欲しい。
戦後、瀬戸内の小さな島の小学校で教員をしていた石川孝子(乙羽信子)は、広島に投下された原爆で家族を全員失っていた。
ある夏休み。原爆被災したときに勤めていた幼稚園の園児の消息を確認しようと、孝子は広島市内へ足を運ぶが、萬代橋で一人の物乞いに目が留まる。それはかつて孝子の家で働いていた使用人の岩吉爺さん(滝沢修)だった…。
作品の内容についてとやかく言う気はまったくない。
ここに描かれたドラマは、原爆によってもたらされたいくつかのエピソードでしかないが、すべての反核映画はここからスタートしているのだ。それだけで充分価値がある。
また原爆投下後の広島で初めて全編撮影された映画でもあるらしい。
フィルムに刻まれているのは、まぎれもなく1952年の広島の様子である。広島に住む人はもちろん、広島に行ったことのある人なら多くの人が、いくつかのシーンで、その場所を特定することが出来るだろう。当時すでに建築が始まっていた原爆資料館が映し出されたときには、「時は流れて風景は変わっても、そこは紛れもなく原爆の被害に遭った土地」であることを痛感させられてしまった。
劇中登場する子どもたちの明るさが心の支え。ふんどし姿で川にどんどん飛び込む元気な子どもたちの姿を見ていたら、今の広島があるのは間違いなくこの世代の頑張りにあったと確信した。そして人間の強さを実感する映画でもあった。
秀作。
今日僕は、フツーの人よりちょっとだけ多く映画を観てるからって、なんだか知ったかぶりしている自分がすごく恥ずかしくなった。僕はこの映画のことを知らなかった。そんな僕が言うのは心苦しいけれど、これは日本人としてゼッタイに観なければならない極めて重要な1本である。
なによりこれは、戦後はじめて「原爆」を直接取り上げた映画だということ。
公開されたのは1952年8月7日。広島に原爆が投下されて丸7年後の同日である。実はこのタイミングにも重大な意味がある。
1952年4月28日。日本は7年に渡るGHQの占領地政策が終了し、主権を回復した。
それまで商業映画、演劇の類はGHQに台本や大意を提出し、認められなければ原則不可という時代である。当時東宝で芸能担当だった森岩雄さんの手記にはこんな1文がある。
「CIE(占領軍)は日本の民主化に必要な宣伝啓発に資する劇映画の製作を勧め、単なる娯楽映画の製作を喜ばない傾向があった」
そんな時代に反戦、反核を謳う映画をGHQが許すはずなかった。ましてや「原爆投下は戦争の早期終結に極めて重要な一手だった」とする国である。新藤兼人もひたすら静かに好機を待っていたに違いないのだ。そして占領政策は終わり、映画は作られた。
本作の公開にアメリカが苦虫を潰したであろう様子は、翌53年に起きた事件で分かる。
「原爆の子」はカンヌ国際映画祭に出品されることになるのだが、アメリカからの圧力がかかり、日本の外務省が受賞妨害工作を試みたのだと言う。驚くなかれ日本の外務省が、である。
そんな作品を、いくら時間が経過しているからとは言え、日本人が知らなくていい理由はない。新藤兼人の執念を、画面の端々から感じ取って欲しい。
戦後、瀬戸内の小さな島の小学校で教員をしていた石川孝子(乙羽信子)は、広島に投下された原爆で家族を全員失っていた。
ある夏休み。原爆被災したときに勤めていた幼稚園の園児の消息を確認しようと、孝子は広島市内へ足を運ぶが、萬代橋で一人の物乞いに目が留まる。それはかつて孝子の家で働いていた使用人の岩吉爺さん(滝沢修)だった…。
作品の内容についてとやかく言う気はまったくない。
ここに描かれたドラマは、原爆によってもたらされたいくつかのエピソードでしかないが、すべての反核映画はここからスタートしているのだ。それだけで充分価値がある。
また原爆投下後の広島で初めて全編撮影された映画でもあるらしい。
フィルムに刻まれているのは、まぎれもなく1952年の広島の様子である。広島に住む人はもちろん、広島に行ったことのある人なら多くの人が、いくつかのシーンで、その場所を特定することが出来るだろう。当時すでに建築が始まっていた原爆資料館が映し出されたときには、「時は流れて風景は変わっても、そこは紛れもなく原爆の被害に遭った土地」であることを痛感させられてしまった。
劇中登場する子どもたちの明るさが心の支え。ふんどし姿で川にどんどん飛び込む元気な子どもたちの姿を見ていたら、今の広島があるのは間違いなくこの世代の頑張りにあったと確信した。そして人間の強さを実感する映画でもあった。
秀作。
この映画が出来上がったのは、まさに
>新藤兼人の執念
の力が大きいのだろうと思います。上映までの計り知れない困難を乗り越えたのもまた、同じものが支えたのだと思います。
戦後多くの戦争を扱った邦画がつくられ、戦争を美化するものも、若い俳優を売り出すためのものもあったと思います。
それらの映画と、ご紹介いただいた映画のような作品の決定的な違いが
「なんとしてでもこの作品を生み出すのだ」という、まさに人々の執念だったのだろうと思いました。
又、自分はあまりにも「戦争の記録」を見ていない、読んでいないと改めて気づかされました。
by Sho (2010-08-21 09:28)
僕はここ数年で戦争映画を沢山観るようになりましたが、
製作された年代によって、その趣が大きく異なりますね。
その背景を理解した上で観ると、それが軍を描いていようが
民間人を描いていようが、とても面白く観られると思います。
nice!ありがとうございます。
by ken (2010-08-21 10:14)