SSブログ

プレイ(2011年・スウェーデン/デンマーク/フランス) [2011年 レビュー]

原題:PLAY  監督・脚本:リューベン・オストルンド

 24th「TIFF」5本目。
 スウェーデンで実際に起きた黒人少年グループによるカツアゲ事件を題材にし、その標的となった白人&アジア人少年3人を、わずか12〜14歳の黒人少年たちが追い込んで行く様を描いた、実験的かつ挑戦的な作品。

 本編のほとんどが「子供の世界で起きていること」を客観描写している。
 事は人通りの多いショッピングセンターで始まる。
 黒人少年グループは、買い物を愉しむ白人とアジア人の少年3人に照準を合わせる。黒人少年たちにはいくつかの作戦があって、この日は「リトル・ブラザー・ナンバー」で行くことを決めた。「ちょっと携帯電話を見せて」と近寄り、一人の少年が「弟が盗まれた携帯電話に似てる」と言いがかりをつけるのだ。
 黒人少年たちの作戦はなかなか巧妙で、言いがかりをつけるキレ気味な役もいれば、ターゲットとの間に入って事を荒立てずに済ませようとする仲介役もいる。彼らは基本暴力には訴えない。知恵者なのだ。

 子供の頃に一度でもいじめに遭った経験がある人なら、黒人少年グループに追い込まれる白人&アジア人少年の気持ちが手に取るように分かると思う。少年たちがショッピングセンターを出る頃には、心の奥底で眠っていた記憶がぽかりと浮き上がり、あの日の緊張感をまるで昨日のことのように思い出すだろう。
 カメラはズームやドリーと言ったカメラワークを行わない客観描写に徹しているため、観客は現場に居合わせたような錯覚を得る仕掛けになっている。強烈な緊張感はそのせいだ。
 僕も中学時代、劇中の少年たちのように面倒な連中につきまとわれた経験がある。それは今思えばスピルバーグの「激突!」にも似た執拗さで、怖くなった僕はオトナに助けて欲しいと心から思った。けれどそのアピールは出来なかった。誰かに救いを求めて失敗に終わったときが怖いからだ。だから僕は劇中の白人少年たちのように平静を装っていた。ただ目ではしきりに訴えた。「オトナなら気付いてくれる」と信じていたからだ。しかしそれは僕の妄想でしかなかった。
 僕は本作を観て初めて「子供同士の諍いに、いつの時代もオトナは介入しようとしない」ことを確信し、さらに「いじめる側はオトナの介入を許さない圧力を発している」ことを知った。どんなケースでも“いじめの現場”が見えない理由はこういうことだったのだ。

 本作にはもうひとつ特筆すべきことがある。
 黒人少年たちは私たちのステレオタイプを逆利用していたことだ。本作のテーマもそこに集約されていて、観客は終盤、あっと驚かされる。そして私たちはオープニングのショッピングセンターからすでにステレオタイプで観ていたことに愕然とする。見事である。脚本も、モデルとなった黒人少年たちのレトリックも。
 
 本作は子供同士の諍いに介入するオトナの立場についても一考を迫る。
 すべてはステレオタイプがいかに危険な観念であるかを訴えるものだが、テーマと等しくビターな展開がとにかく見事。東京国際映画祭もこの作品にグランプリを与えるようなら、映画祭としてのステージも上がる気がしたほど。

17.jpg


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。