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武士の一分 [2007年 レビュー]

武士の一分」(2006年・日本) 監督:山田洋次 脚本:山田洋次、平松恵美子、山本一郎

 キムタク効果もあって(というよりそれだけだと思うけど)時代劇としては異例のヒットをしているこの作品。
 僕なりに観るポイントは2つあった。
 一つ。山田洋次時代劇3部作、最後の作品としての完成度。
 二つ。木村拓哉が主演に相応しいか否か。
 「たそがれ清兵衛」も「隠し剣鬼の爪」も素晴らしい作品だった。
 真田広之も永瀬正敏も見事な演技を見せていた。
 木村拓哉は過去2作の実績があったからこそ、3部作最後の作品への出演を決めたんだと思う。
 山田洋次時代劇のクオリティの高さ。それにともなう国内外の反響の大きさ。木村拓哉はそれを見越して今回の仕事を引き受けたはずだ。仮に時を遡って「『たそがれ清兵衛』の主演に…」という話だったらきっと引き受けてなかったと思う。時代劇映画はとうの昔に廃れていたし、そもそも木村拓哉が時代劇を演る理由など当時は全くなかったのだ。
 しかし過去2作品のおかげでお膳立ては整った。
 そして、「この仕事を引き受けても自分の
キャリアに傷がつくことは無い」と踏んで満を持しての登場と相成ったわけだ。

 序盤。
 失明する以前の三村新之丞演じる木村拓哉は、いつものただのキムタクだった。正直これだけでガッカリした。
 断わっておくが僕は木村拓哉には何も期待していない。ただ山田洋次監督には期待した。木村拓哉の芝居を変えられるのは監督しかいない、と思っていたからだ。
 普段我々が目にする木村拓哉は“キムタクというタレントを演じている”木村拓哉である。
 タレントとしての立ち振る舞い、仕草、表情、すべては第三者から見られていることを前提にした演技であって、タレントとしては別にそれでいいのだけれど、芝居をするときは一旦“キムタク”を演じるのを止めてニュートラルな状態にしなければならない。しかし彼にはそれが出来ない。だから「キムタクは何をやってもキムタクにしか見えない」と言われるのだ。これはまさに「アイドル映画で良く見られる光景」と言っていいだろう。
 中盤。
 しかし視力を失った三村新之丞には少なからず山田洋次監督の介護が必要だったと見えて、若干だがキムタク色を払拭することに成功している。例えば目線の送り方や手足の動かし方など、あきらかに監督の演技指導によるものだろうと思わせるシーンがいくつかあって思わず苦笑してしまう。
 終盤。
 「武士の一分」という言葉を何度か台詞として言わせたことと、オチが見え見えの脚本にガッカリする。正直「山田洋次ともあろう人が…」と溜息が出た。
 「たとえ結末が分かっても泣かせる技がある」と思ったのかどうかは知らないが、個人的には木村拓哉の芝居などとは比べ物にならないほどガッカリだった。

 妻・加世を演じた壇れい、使用人の徳平を演じた笹野高史はそれぞれ与えられた仕事はしたけれど、別段「良い」とも言い難い。すべては脚本のせいだと思うけれど。
 「武士の一分」を“キムタクの時代劇”として観に行った人は満足するかもしれない。
 しかし山田洋次×藤沢周平時代劇の第3作としては作りが緩すぎる。駄作とは言わないが決して佳作ではない。期待しただけにはなはだ残念


 この作品を観に行こうと思っていて、まだ「たそがれ清兵衛」も「隠し剣鬼の爪」も見ていない人がいたら、「武士の一分」は止めてDVDでいずれかの作品を観ることをオススメします。

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  • 出版社/メーカー: 松竹
  • メディア: DVD

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コメント 6

中山

 昨日、冷たい雨が降る中を観にいきました。
タダ券を親戚にもらったからですけど。
ほんと、kenさんのおっしゃることに同感しました。
本作品はなにやらおしなべて好評で、じくじくした
鑑賞後感をどこかの人と分かち合おうとネットに
向かった僕としては12人の人に肩すかしをくらった
感じでよけいジクジクしてましたけど、ちょっとすっきり
しました。
 そんなわけでこれからkenさんの昔のものも読ませて
いただきます。
 
 
by 中山 (2007-01-21 01:53) 

ken

中山さん、ようこそ。
「批判的な記事に対しては往々にしてコメントが着かない」
という僕なりの“ブログの法則”通り、しばらくここは静かだったんですけど
ようやくコメントが付いて嬉しい限りです。
by ken (2007-01-22 00:30) 

satoco

こんにちは。最近やっと観ました。なんかすっきりしないなーと思ったので、kenさんの記事を読んですっきりしました。私の周囲ではキムタクがいいかどうかって話ばっかりで...。
TBさせてください。
by satoco (2007-11-30 12:26) 

ken

まあどうしたってキムタクのハナシにならざるを得ませんけどねえ(笑)。
by ken (2007-11-30 19:26) 

ysh

駄作である。

多くの人は、山田洋次監督時代劇過去2作品と比較してこの作品を論ずるが、私は藤沢周平原作の視点から、その「駄作」性を論じたい。
見始めてしばらくは、木村の大根役者振りに唖然としていた(しかしこの男、歌は歌えない、踊りは踊れない、芝居は演じられない。芸能人としての、何の取り得があるんだろう?)。
しかし、見進めていくうちに、段々と山田演出の拙さが感じられてきた。
仇役との果し合いシーン。原作では盲目の主人公が音・風・気配だけを頼りに相手と対峙する、その主人公の五感(視覚を除く)だけで描写されるシーンだ。それだけに臨場感が盛り上がる。
それを山田監督は、みーんな映像で撮っちゃった。みーんな映像で説明しちゃった。原作の臨場感が台無し。盲目の主人公の視覚によらない情景描写をどう映像化するのか、そこに期待していた私はガッカリ。
このシーンを見ていて、私の胸中にはもっと大きな不安が湧いてきた。「ラストシーンはどう撮ったんだろう?」。原作をお読みになった方はご存知だろうが、下働きの爺さんが「新しい飯炊き女」として連れてきた女性が実は離縁した妻であった、という感動のオチは、原作では文章で説明されてはいない。ただ「味噌汁の味に憶えがある」といった主人公の心理描写だけで読者にそれを暗示し、主人公の呼び掛けに嗚咽で答える妻の声でそれが決定的となる、そういった心憎い描写なのだ、原作では。
で、本作では・・・木村の食事を甲斐々々しく支度する壇の映像・・・直球ド真ん中・・・ハリウッド映画だね、まるで。
原作の持って来かたも安易だ。そもそも藤沢の原作は、短編集のなかの一編だ。例えて言えばO.ヘンリー短編集のなかの「賢者の贈り物」のような、ほろ苦くって、甘酸っぱくて、「ちょっといい話」なのだ。それを2時間の映画に仕立てること自体に、そもそも無理がある。だから、原作ではイントロ程度に触れられるだけの「主人公が視力を失った経緯」について、延々1時間近くも引っ張らなくてはならなくなる。ストーリーの本筋には、何ら関係ないことなのに。

なにも、原作に忠実であることが映画化の至上命題だと主張しているわけではない。原作の表現を監督独自の演出で違った形で表現し直し、原作とはまた違った良さ、原作を上回る芸術性を創出することを否定するものではない。
しかし、原作からインスパイアされた独自の芸術性がないのなら、あるいはそれがあっても表現する術がないのなら、原作の描写に頼るべきなのだ。

思うに、黒澤など本流の巨匠が存命だったころは、山田はどうしてもバイプレーヤ的な存在だった。それでも、黒澤などの大作ではなく、渥美清や倍賞千恵子、高倉健など俳優の個性を効かせた小気味良い作品を撮る監督しては、名監督であることに間違いはない。しかし、本流の巨匠たちが他界し、気付けば映画界の大御所として残る自分に気付いたとき、何か勘違いしちゃったのではないか。
「木村だって壇だって、オレの演出に掛かりゃ名演技させられるゼ」そんなノリだったんではないか?

駄作である。
こんな作品ばかり撮ってると、ほんとにダメな監督になっちゃうよ、山田さん。
by ysh (2008-01-17 23:15) 

ken

原作のラストってそういう描写だったんですね。
分かり易く撮っちゃったもんだなあ。
by ken (2008-01-18 21:59) 

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