ぐるりのこと。 [2008年 ベスト20]
生まれたばかりの子を失い、やがて心の病を患う妻と、感情表現に乏しい不器用な夫の10年におよぶ物語。
いい映画でした。
これは現在日本に1,000万人いるとされるうつ病患者の、ほんの一端を垣間見る映画ですが、うつになってしまった人と、その周囲にいる人の両方に向けた映画になっています。もちろん多くの人は後者の立場で観るわけですが、転ばぬ先の杖と言いますか、この映画は観ておいてまったく損はないと思います。
僕の周りにもうつになってしまった人が少なくとも2人いました。
1人目(仮にA君とします)のときは対処法が分からず、お互いにずいぶん苦しみました。「このままじゃきっと自殺してしまう」ところまで追いつめられたA君は自らそう言って病院に飛び込みます。彼は子供が生まれて間もない頃で、そのおかげで踏みとどまれた、と言っていました。今は奥さんの実家に身を寄せ、農業に励んでいます。
2人目(B君)のときは、A君のときの経験があって穏やかな対処が出来たと思います。B君もしばらく通院しましたが、早くに自立し今はあるお寺で修業生活を送っています。つい先日届いた葉書に「みんないい人ばかりです」とあったのが印象的でした。
実は2人とも僕の会社のスタッフでした。そして、うつを知らずにうつの人と接することがどれくらい危険なことか、僕はB君と対峙したときに知りました。そしてつくづくA君には悪いことをしたな、と思ったのです。
うつになる人は生真面目な人が多いとよく聞きます。
お医者さんから、「あなたは1か月くらい休んだほうがいいですね」と言われて、「やったー」と喜ぶような人はうつにならないそうです。逆に「そんなに休んだら大変なことになる」と言って頭(かぶり)を振る人がうつ予備軍なんだそうです。
幼い子供を亡くしてしまった翔子(木村多江)は几帳面な性格が災いして心の病に侵されて行きます。対する夫のカナオ(リリー・フランキー)はのほほんとした性格で、妻の状況を理解できません。これは世のダンナ衆すべてに通じることだと思いますが、機嫌を損ねた妻の扱いも分からない夫に、うつになってしまった妻の扱いなど分かるはずもありません。
そんな人たちのためにこの映画はとても大事なことを教えてくれます。
それは、うつになった人と向き合うときに考えるべきことは、「相手に何を施すか」ではなく、まず「相手のために自分がどうあるべきか」だということです。論外ですけど逃げたら終わりです。
口数が少なく、感情をなかなか露にしないカナオをリリーさんが自然体で演じています。
きっとカナオはリリーさん本人なのでしょう。カナオは「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」の中の“ボク”にそっくりでした。そんなこともあって僕は、原作にはあって映画にはなかったリリーさんのある文章を思い出しました。オトンがボクに「女には言うてやらんといけんぞ」と教えるシーン。まさにこの映画に通じる一言だったなと思います。
翔子を演じた木村多江も本当に良かった。
特に、いろんなことがあった末、ある晴れた日の台所できれいに炊けたご飯を覗き込む翔子の表情が素晴らしく、なんでもないシーンなのに思わず泣けてしまいました。
カナオを法廷画家という職業にした設定も見事。
90年代に社会を揺るがした事件を織り込みながら、人間がいかに弱く壊れやすい生き物であるか、カナオの目を通して間接的に見せた手法は特筆に価すると思います。
それにしても、A君もB君も翔子も、結局人間は誰かに支えられて活きているんだな、と思った1本でした。
佳作。
敬愛なるベートーヴェン [2008年 ベスト20]
「敬愛なるベートーヴェン」(2006年・イギリス/ハンガリー) 監督:アニエスカ・ホランド
1824年5月7日。ウィーンケルントネル門劇場。
歴史的な一夜が訪れようとしていた。
交響曲第9番ニ短調作品125の初演。
この日ベートーヴェンは難聴であるが故、指揮することを恐れていた。
そんな彼を陰から支え、演奏会を成功に導いた一人の女性がいた。
アンナ・ホルツ、23歳。
彼女はベートヴェンの書いた楽譜を清書する写譜師だった…。
映画としてはかなり面白いです。
ここまでクオリティの高い音楽映画も久しぶりに観た気がします。
ただ、唯一残念なのは、これがフィクションであること。
アンナ・ホルツは架空の人物。
“第九”初演の夜、ベートーヴェンは舞台上にこそいたものの指揮をしたのは別の人物。
ここに目を潰れるかどうかが、本作の評価を分ける最大のポイントだと思います。
繰り返しておきますが、映画としては本当に面白いです。
まずベートーヴェンを演じたエド・ハリス。
乗り移ってます。何気にピアノもバイオリンも弾いてて驚きます。もう本物としか思えません。
「ポロック 2人だけのアトリエ」でジャクソン・ポロックを演じたときも「スゴイ!」と思いましたが、それをはるかに飛び越えてます。彼のベートーヴェンを超える役者は当分出て来ないでしょう。
アンナ・ホルツを演じたのはダイアン・クルーガー。
しびれるほどの美しさ。女性の作曲家など認められなかった時代にベートーヴェンの音楽を理解し、彼にアドバイスまで与えてしまう理知的で聡明な女性。彼女なしにこの架空の人物は創造出来なかっただろうと思わせるほどの存在感。
この2人がまさに“競演”する第九の初演シーン11分間は、(それが事実であろうとなかろうと)あまりに感動的な歴史的瞬間の再現でした。
エド・ハリスとダイアン・クルーガーの名指揮ぶりも、アシュレイ・ロウのカメラワークも、アレックス・マッキーの編集も、そして100以上あると言われる“第九”の録音から、テンポが速く力強い演奏を聴かせるアムステルダムのロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団(ベルナルド・ハイティンク指揮)の録音を選んだアニエスカ・ホランドのセンスも、総てが本当に素晴らしい。
そして演奏が終わったあと。耳の聴こえないベートーヴェンに届く“音の演出”も見事でした。
本作の構造は、17世紀のオランダの画家フェルメールが「青いターバンの女」を完成させるまでを描いた作品、「真珠の耳飾りの少女」と極めて似ています。
天才アーティストの現代に残る作品をアシストした無名の人。
この作品も大いなるフィクションですが、それでも許されたのは、なにより「フェルメールに謎が多い」からでしょう。
絵のモデルは誰なのか?絵はパトロンからの発注によるものなのか?自発的に描いたものか?
その想像力を働かせて作り上げたフィクションは、一種のファンタジーとして好意的に受け止められたのだと思います。
僕は「これが実話ならスゴイことだ」とヘンな期待をして観てしまいました。だから不満もあったのですが、これからご覧になる方は、大人のためのおとぎ話だと思って観れば、十分に感動できる“物語”だと思います。
少なくとも僕にとって“第九”演奏の11分間は、生涯忘れられない名シーンとなりました。
- アーティスト: サントラ,ルチア・ポップ,ペーター・シュライアー,キャロライン・ワトキンソン,ロベルト・ホル,ヴァルデマル・マリツキ,スティーヴン・コワセヴィッチ,ヴラディーミル・アシュケナージ,タカーチ弦楽四重奏団,ロンドン交響楽団,ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
- 発売日: 2006/11/22
- メディア: CD
しゃべれども しゃべれども [2008年 ベスト20]
TOKIOの国分太一は好きだ。あんなに天真爛漫に笑うJのタレントを僕は他に知らない。
そんな彼がちょっと堅物の二つ目を演ると聞いて、「なんだかイメージと違うな」と思っていた。佐藤多佳子原作の映画化には興味があったけれど、公式ポスターのアートワークも好きになれずに、結局今日まで未見だった。
しかし。
実にいい。
なんでもないカットや、なんでもないやりとりが、妙に心の琴線に触れる。
本当になんでもないようなことが。
なぜだろうと思っていたら、この映画に登場する主要3人の男が、自分の過去から現在に重なっていることに気が付いた。
大阪から東京へ転校してきて、うまく馴染めないでいる小学生の村林(森永悠希)。
目標を持って打ち込んでいるつもりでも、この先の道筋が見えていない「今昔亭三つ葉」こと外山達也(国分太一)。
自分の思いをうまく伝えられないせいで、仕事もうまくいかない元プロ野球選手の湯河原(松重豊)。
それぞれ年代は違うけれど、この3人が抱える悩みはかつての僕が抱えていた悩みだ。だから僕は彼らの気持ちを理解し、「なんとか乗り越えて欲しい」と願う。
僕は映画を観ながら、かつての自分にエールを送っていたのだ。
だからふいに涙もこぼれる。
落語という世界もいい。
この設定は、日本人が古来持っていた「粋で筋の通った」生き方が描き易い。
主人公の達也も噺家(しかも古典にこだわり、新作落語に手を染めない頑固者)という設定でなかったら、きっと偏屈な男に見えただろうし、八千草薫が絶妙の間合いで演じて見せた祖母の役もまったくリアリティを持たなかっただろう。また現代の東京にあって希少価値の高いレトロなロケーションを見せることが出来たのも、この設定のおかげだ。
ただしキャスティングには一言ある。
元プロ野球選手の役に松重豊は無い。バットを振るシーンが2度あるが、いずれも経験者に見えない所作でがっかりした。ここは永島敏行か柳葉敏郎あたりを持ってきて欲しかった。
香里奈も個人的には賛成しない。むっつり美人という設定なら(今、完全にブームが来ている)真木よう子がいい。
反対に伊東四朗さんと八千草薫さんは素晴らしく良かった。
四朗さんの演った「火焔太鼓」は、さわりだけとはいえ素人の僕には充分「真打」の仕事に思えたし、八千草薫さんのとぼけた味わいは絶品だった。
中でも後半、落語の魅力にハマった小学生の村林が達也に、「オレ、弟子予約しとくわ」と言った八千草さんの返しが絶妙だった。
「大人になりゃ、それが間違いだって分かるよ」
エンディングのまとめ方に多少の不満は残るものの、久しぶりに観た気持ちのいい1本。
シークレット・サンシャイン [2008年 ベスト20]
韓国には、おそらく日本人には作れないだろう、ずしりと重いテーマに挑む監督がいる。
「バンジージャンプする」のキム・デスン。
「サマリア」のキム・ギドク。
「オールド・ボーイ」のパク・チャヌク。
そして「オアシス」のイ・チャンドン。
これは、イ・チャンドン5年ぶりの新作で、主演のチョン・ドヨンが2007年のカンヌ国際映画祭で主演女優賞を受賞した作品です。
テーマは「神とワタシ」
チョン・ドヨンが演じたのは、シングルマザーのピアノ教師、シネ。
亡き夫の故郷である地方都市・密陽(ミリャン)に移り住んだシネは、“ある事件”に巻き込まれてから神の存在を信じるようになる。信仰心を持つようになったシネは穏やかな日々を送っていたが、ある日重大な転機を迎える…。
僕はこれまで様々な形の「信仰」にまつわる作品を観て来ましたが、これほど衝撃を受けたことはありませんでした。というのも、これは全く新しい形で「信仰の意義」を考えさせる作品だからです。
無宗教の僕はここで、「神の存在の大いなる矛盾」を見てしまいました。
“神は一体どこにいて、誰のことを見つめているのか?”
手塚治虫の最高傑作(と個人的に思い込んでいる)「ブッダ」では、「神は皆の心の中にいる」という結論に辿り着きます。僕も基本的にはこの考え方に賛同しているのですが、「それじゃ困る」ことがこの映画では起きる。このシーンが本作最高の見せ場です。
まずこの“矛盾”に気付いたことが凄い。
そして国民の5割強がなんらかの宗教を信仰している韓国で、この結末を書いたことも凄い。
イ・チャンドン、只者じゃありません。
「信じるものは救われる」とは宗教の勧誘でよく聞く言葉ですが、この言葉の意味を真剣に考えたくなる映画です。
「ゆる会」のお題にしたい佳作。
チョン・ドヨンはキャリア最高の演技を披露し、ソン・ガンホが素晴らしいアシストを見せています。
クンドゥン [2008年 ベスト20]
「KUNDUN」とは「法王猊下(ほうおうげいか)」の意味で、ここではチベット仏教の最高指導者「ダライ・ラマ14世」を表している。
これは、ダライ・ラマ13世の生まれ変わりとしてとある寒村で見出されてから、チベット動乱によってインドへの亡命を余儀なくされるまでの22年間を事実に即して描いた、史上初の「ダライ・ラマ14世」映画である。
僕はこんな映画をスコセッシが撮っていたとは露知らず、そしてチベット動乱以来の暴動が今まさに中国各地で発生しており、これは絶好のタイミングだと思って観てみた。
観ると「もしや『ラストエンペラー』の二匹目のどじょうを狙ったか?」と勘ぐりたくなる展開をするのだけれど、そう思うのも最初のうちだけ。結果から言うと、この作品は実に良く出来ている。「インドへ亡命するまでのダライ・ラマ14世はどういう人物だったのか?」を学習するには、これ以上ない教材と言っていいだろう。
まず感心するのは、過剰な脚色がされていないという点だ。
唯一、ダライ・ラマ13世の生まれ変わりかどうか試されるシーンだけが「出来すぎ」な感じがしないでもないが、それ以外は実に淡々としたエピソードの積み重ねで構成されており、とても好感が持てる。「はたしてこれをスコセッシが撮る必要があったか?」と言いたくなるくらい全編が実に“穏やか”なのだ。
しかし何を隠そう、この穏やかさを作り上げているのはスコセッシならではの映像美と、例えどんなテーマの作品でも確実に自らの懐に手繰り寄せ、迷いのない演出を施す抜群の手腕によるものだ。
観れば分かる。たわいもないシーンなのに何故か心に響くカットの積み重ねなのだ。
脚本は「E.T.」のメリッサ・マシスン(ハリソン・フォードの元妻)。
ダライ・ラマ14世は3歳のときにダライ・ラマ13世、トゥプテン・ギャツォの転生と認定され、以来「クンドゥン」と呼ばれるが、それでも3歳の子供に変わりは無い。本編の大半はこの子の成長物語に費やされるが、この成長の度合いも絶妙。
子供でありながら法王猊下であることの“本人の戸惑い”が要所要所に織り込まれていて、俗人の我々にも理解の出来る展開が素晴らしい。
ダライ・ラマ14世の3歳から24歳までを演じた4人の俳優も見事だった。
この手の作品の場合、どこかの世代で何らかの違和感を感じるものだが本作に限ってはまったくそれが無かった。脚本とキャスティングプロデューサーと監督と、そして俳優たちの力の結晶だろう。
ひとつだけ欲を言うなら、オープニングとエンディング間近で2度登場する「砂曼荼羅」は何らかの説明を入れて欲しかった。僕はたまたまあるニュース番組の特集を見て砂曼荼羅の意味を知っていたので、当該シーンの意味合いを理解できたのだけれど、それを知らない人たちには一体何のことだか分からないはずだ。実に勿体無い。
去る3月16日の記者会見でダライ・ラマ14世は、今回の騒乱で多数の死傷者が出たことについて「文化的虐殺」と中国を非難した。この言葉の持つ意味は、本作を観ると実に良く分かる。
なぜ中国は他国(と言いきってしまう)で綿々と息づいてきた異文化に干渉するのか。
激しい憤りを覚えつつ、今後の情勢に注目したいと思う。
今、まさに観る価値ありの1本。
マイ・ブルーベリー・ナイツ [2008年 ベスト20]
映画の愉しみは旅を疑似体験できることだ。
だから僕はロードムービーが大好きで、仮に作品に確固たる着地点が無かったとしても、旅を疑似体験した僕自身がその作品から何かを得たなら、結果オーライで僕の記憶に留まって来たように思う。
ウォン・カーウァイにとって「2046」以来の長編となる本作は、前作からは想像できないくらいシンプルで、かつ極めてハリウッド的なゴールへと導かれるラブ・ストーリィだ。
傑作「花様年華」に織り込めなかったストーリーをベースにしたと言われているが、「花様年華」の緊張感はどこにも見受けられない。ただしそれが悪いというわけではなく、「設定を現代のアメリカに置いてみたらこうなった」と言うだけのこと。僕はこのフィルムから伝わる土地土地の“湿度”が妙に生々しくて好きだ。
「花様年華」の重要なシーンはウェットだったと記憶している。それは究極のプラトニック・ラブを描くため、マギー・チャンとトニー・レオンにクールな芝居を求めた監督の演出だったと思う。「花様年華」に雨のシーンがなかったら、僕はどこまで感情移入出来たかわからない。
「マイ・ブルーベリー・ナイツ」はその逆だ。
ニューヨーク、メンフィス、ラスベガス。
どの街にも涙する人がいる。けれどそれぞれの土地の空気はまったくウェットじゃない。
僕はここにロードムービーの真髄を観た気がした。
おそらくすべての旅人が見つけるだろう、一人旅の結論がここにあるからだ。
「泣いていても、何も始まらない」
さて、ノラ・ジョーンズ。
心配したほど酷い芝居じゃなかったけれど、ボサッと立っていたら周りがうまくやってくれて、いつの間にか大統領候補にまで上り詰める、ピーター・セラーズの「チャンス」を思い出した。共演した役者たちにおおいに助けられた、という意味で。
これは「ノラを主演に映画を撮りたい」と閃いた監督の、べストな演出だったと思う。
ノラ自身は、スモーキー&ハニーと称される彼女自身の声に救われている。あの声で芝居をされたらもう僕には何も言うことがない。
「声」ついでに書いておくと、ジュード・ロウとノラの2人芝居は「耳」に心地いい。まるでデュエットを聴くような美しさがある。だから是非、いいオーディオ環境下で観て欲しい。
単純にノラのファンとしては、彼女の愛らしさに目を奪われるばかり。
特にパイを食べたあと、カフェで居眠りをしてしまうシーン。ノラの肉感的な唇が“熟した果実”のように映る彼女のアップは、このワンカットを観るためだけに1,800円を払ってもいいと僕に思わせる。DVDが出たら家宝にしたい(笑)。
以前僕は「恋愛映画はもういい」と書いた。けれどこれは「旅」の映画だ。
旅はいい。
「さすらいもしないで、このまま死なねーぞ」と、やっぱり思う。
【おことわり】
この作品は「第5回ゆる会」のお題にする予定でしたが、仕事の関係でお先に観てしまいました。
申し訳ありません。
ただ、もう一度劇場で観たいと思っておりますので、許してちょんまげ。
天然コケッコー [2008年 ベスト20]
昨年、仕事で長崎へ出かけたときのこと。
行く場所行く場所、坂を上がったり下りたりの連続で車酔いしそうになっていた僕に、「長崎は坂が多いから、ここで生まれ育った娘はみんな大根足になるんですよ」と地元のカメラマンが声を掛けてくれた。
あとで地図を広げてみると、確かに長崎市は三方を山に囲まれた「すり鉢」状になっていて平野部が少なく、住宅地の多くは山の中腹にあった。これが「坂の街」と言われる所以である。
「足の太い子は地元の子。細い子はよそから来た子」と続けてカメラマンは笑った。
「天然コケッコー」は山陰地方の田舎町に住む少女の物語だ。
僕はその主人公、右田そよを演じた夏帆の“足”が気に入った。
夏帆は東京出身で、小学生のときにスカウトされて芸能界に入った女の子だ。間違っても自分のことを「ワシ」などと言わないし、東京の人ごみに圧倒されて貧血を起こすような子でもない。
ところがここでの夏帆は微妙なニュアンスの方言を体得し、豊かな自然と暖かな人たちに囲まれてすくすくと育った田舎の少女を見事に演じている。
役者であれ監督であれ優れたテクニックを認めたとき、僕はそれを「巧い」と評してきた。
夏帆も驚くほど巧い。
特にセリフのない芝居が絶妙で、喜怒哀楽のどれでもない感情の表現は天才的だったと思う。
しかし、夏帆の女優としてのテクニックを、まさかそうとは思わせなかったのが彼女の“足”だ。
愛らしい顔立ちからは想像し難い幾分たくましい足。
それはこの土地で生まれ、この土地で育った少女の証。
僕に「イングリッシュ・ペイシェント」のジュリエット・ビノシュを思い出させたこの足こそが、「右田そよ」を実在させた最大のリアリティだった。
村の子どもたちも特筆に価する。
中でも田浦家の幼い姉妹を演じた2人(当時9歳と7歳)は「どうすればこんな芝居をつけられるんだ?」と驚くばかり。これはチャン・イーモウの「あの子を探して」以来の衝撃だった。
さて個人的には、どの立場で観ればいいのか一瞬迷った。
僕はそよの父親(佐藤浩市)の世代だし、そよが東京からの転校生に惹かれていく過程は、「こら、そんな東京モンに惚れてんじゃねー!」というオヤジの気持ちが先に立ってハラハラし、ドラマに乗り損ねた感が無いでもなかった。けれど「これじゃいけないんだな」と分かってからは、僕自身楽しかった中学時代を思い出しながら観ることにした。多分これが正解なのだ。
実を言うと僕は、本編が始まって5分もしないうちに泣きそうになっていた。
日本の原風景とも言うべき美しい田舎の風景は、いつかはそんな場所へ還りたいと思わせるに充分で、かつ過去のさまざまま出来事をフラッシュバックさせたからだ。
夏帆の“足”を観ながら、僕は中学時代に好きだった女の子の足をふと思い出した。
そういえば彼女もそんなに細い足じゃなかったなと思ったら、ますます「そよ」のことが好きになった。
ラストエンペラー [2008年 ベスト20]
今さらですがはじめて観ました。
恥ずかしながら「ラストエンペラー」=「愛新覚羅溥儀」であることも知りませんでした。
つまりこの映画は日本と深い関わりのあった清朝最後の皇帝のハナシであり、戦前の日本が中国に対してどれだけ酷いことをしてきたかを知る絶好の教材でもあり、さらに(望むと望まざるに関わらず)若くして頂点に立った者が転落してしまうとその衝撃はあまりに大きい、という教訓にもなっています。
無知な中年にとってはこれだけで充分に面白かった。163分はまだ短いくらい。ところが、調べてみたら219分のオリジナル完全版があるらしく、買ってでも観ようかと探したのですが、過去VHSでリリースされたのみでDVD化はされていない模様。うわぁ残念。
実を言うと僕も最初は「3時間弱かぁ」と思いながらリモコンのスタートボタンを押しました。
スタートしてまもなく英語セリフであることが分かって少々げんなりしたのですが、15分を過ぎたあたりで完全にハマりました。それは、史上初めて撮影が許されたという紫禁城の美しさと、3歳の溥儀を演じた子役(リチャード・ヴゥ)の天才的な演技に唖然としたからです。
特に紫禁城大和殿での即位式のシーンでのリチャード君は、“映画の神様”が降りたとしか思えないほどの演技を披露し、それをフォローするカメラワークも抜群で、これぞ映画史に残る名シーン。
このシーンはラストシーンへの重要な布石にもなっていて、これぞまさに栄枯盛衰。老いた溥儀が紫禁城を歩くシーンには胸が痛みました。僕はこのシーンの感動をより大きなものにするためにも、219分費やしてもいいと思うワケです。
この映画には一つの過ちもあります。
日本での劇場公開時にはカットされたと言う「南京大虐殺」の記録映画部分。
僕はあまりに衝撃的な映像に驚いて「そんなフィルムが本当に残っていたのか?」と調べてみたら、これは1944年にアメリカで上映されたプロパガンダ映画「The Battle of China」の一部で、実際は中国国民党・蒋介石軍が、同じ中国の共産党員を射殺するシーンを監督のフランク・キャプラがトリミングしたもの、というのが定説になっているようです。
問題はこのシーンがさもホンモノの記録フィルムのように扱われている点。「ラストエンペラー」でこのシーンを観た幾許かの人たちは「南京大虐殺の記録映像」を観た気になっていることでしょう。しかしこのフィルムに限っては事実と異なる映像なのです。日本と中国にとっては非常にナーバスな問題であるだけに、このシーンにはもっと配慮がされるべきだったと思います。
余談ですが、罪作りなヤラセ映像を作った監督が「素晴らしき哉、人生!」のフランク・キャプラかと思うとちょっとガッカリ。
閑話休題。
事実の重さと映像の美しさが妖しいほどに絡み合い、溥儀の人となりを反映させた静かな展開が見事です。
タイトルロールを演じるジョン・ローンもいい。「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」の2年後。でチャイニーズ・マフィアを演じた頃の棘が取れて気品に満ち溢れています。特に晩年のメイクを施してからの芝居に味があって、個人的には彼のことを見直しました。と言ってももう20年前の芝居だけど。
溥儀の本妻となる婉容を演じるのはジョアン・チェン。「この色っぽい姉ちゃん、どこかで見覚えがあるけど誰だ?」と思ったら、「ツイン・ピークス」のジョシー(製材所のオーナー)だったのでそれも今さらビックリしました(笑)。
それにしても、アカデミー賞でノミネートされた9部門すべてでの受賞を達成しただけのことはありました。
名作です。
オリジナル完全版も観たいなあ。DVD出してくれないかなあ。
アラビアのロレンス/完全版 [2008年 ベスト20]
観よう観ようと思いながら未だに観ていない歴史的大作シリーズ完結編。
「風と共に去りぬ」(1939年・アメリカ)、「ベン・ハー」(1959年・アメリカ)に続いて、ようやく「アラビアのロレンス」に手を出しました。長かったあ。いや映画じゃなくて、この企画が(笑)。2005年の6月に「ベン・ハー」でスタートを切って、今日ゴールするまで、まさに観よう観ようと思いながら2年半ですからねえ。
これらの作品に手が伸びない理由は皆さん一緒でしょうけど、まず「長尺である」ということ。そして「今さら観る理由がない」ってことでしょう。
ちなみに「風と共に去りぬ」231分。「ベン・ハー」240分。「アラビアのロレンス」227分。まあ見事にどれも4時間コースですよ。4時間言うたらアナタ、東京駅から大阪のNGKまでビャーっと行って、吉本新喜劇観ながら「アホやなーこいつら」言うくらいのことは出来ますからね。ついでに「たこやきくん」のたこ焼きも三舟くらい食えてるっちゅーねん。…とまあ冗談はさておき。
「アラビアのロレンス」がオリジナル版(1962年)から完全版(1988年)へと生まれ変わった経緯は、allcinema onlineの解説に詳しいのでそちらをご覧頂くとして、いろんな意味で敷居の高い本作を観た率直な感想は、他の2本とも共通するのですが、やはり「観ておいて良かった」に尽きます。
本編。
歴史劇だと思って観始めたら、なんとタイトルバックには一台のオートバイが映っていて、しかも現代風の青年がそれを走らせるシーンからスタートします。それはあまりに意外なオープニングでした。
ところがその青年は事故によって亡くなり、次の葬儀のシーンで彼こそが主人公のロレンス(ピーター・オトゥール)であることが分かります。そして葬儀の列席者の何人かにロレンスのことを語らせ、「はたしてロレンスとは何者なのか?」という疑問を抱かせた上で本編に突入する流れになっていました。
巧いと思います。
葬儀を導入にして主人公の人となりを語る手法は今となっては目新しくありませんが、少なくとも僕には意外な展開で思わず引き込まれてしまいました。しかもこのオープニングは“エンディング”でもあるところが巧いのです。その説明は最後にするとして。
本編の見どころはまずなんと言ってもロケーションです。
CGてんこ盛りの映像にすっかり慣らされた僕たちは、脳天を殴られたような衝撃を受けること間違いありません。
特にアラブ砂漠地帯でのシーンは驚きの連続。地平線から現れる人影を長回しで見せたり、列車の脱線事故を実物で再現したり、圧倒的な人数の戦闘シーンやキャンプのシーンなど、CGが無い時代ですから当たり前なのですが、とにかく観るものすべてがホンモノだという事実。
そして正当な構図で撮影された美しいシーンの数々。これ以上無いだろうと思わせるほど完璧なショットが次から次へと出て来るのです。ストーリーに興味を持てなくても、絵だけ観て欲しい。それだけの価値がこの映画にはあります。僕はこのロケーションで「スター・ウォーズ」の撮影が出来たら、新三部作は随分と印象の代わったものになっただろうなと思いを巡らせました。そんなEP1~3も観てみたかった。
30代の男たちはロレンスの生き様を観ておいてもいい。
まず「運命」を信じるか否か。
運命は自ら切り拓くものか、あるいは流れに任せるものか。ロレンスは一度ある場所で「運命など無い」と声高に叫びますが、後にそれを改める事件が起きる…。
さらに重要なのは「過信」にまつわるエピソード。
劇中、ロレンスの“ある挫折”を請け負うことにした、アラブの族長が傷心のロレンスにこう告げるシーンがあります。
「戦士の仕事はもうなくなった。取引は老人の仕事だ」
勢いのある若者だけが世の中を動かしているわけじゃない、という痛烈な批判。今やどちらでもない僕には充分過ぎるほど心に染みた一言でした。
ラストは意外なほどあっけない。
しかし昔と違って今は、ボタン一つでオープニングへ戻ることが出来ます。
エンドマークを確認したあと、ぜひオープニングを観て下さい。葬儀のシーンに登場した人物がロレンスとどんな関係にあったか。それを知った上で観ると彼らの言葉に重みが出て、これが真のラストシーンになるからです。
インターミッションを挟まない長編であるため、なかなか「一気」というわけには行かないかも知れませんが見応えは充分。時間を見つけてどうぞごゆっくり。
善き人のためのソナタ [2008年 ベスト20]
2006年のアカデミー賞外国語映画賞を獲得し、日本でも評判になった本作が、キネマ旬報ベストテン外国映画部門の第2位に選ばれた。ちなみに第1位は「長江哀歌」。ありえねー。昨年映画会社の内覧に行ったものの、あまりのつまらなさに半分以上寝てた映画だ。これだからキネ旬のベストテンは昔から信用していない。しかし「善き人のためのソナタ」は必ず観ようと思っていた。
監督は若干33歳でこれが長編デビューなのだそうだ。これには正直驚いた。
「ならば」と思う。
ならば僕の不満は相殺しよう。一応ここに書いておくけれど。
反体制的疑いのある劇作家ドライマン宅を盗聴する国家保安庁の局員ヴィースラー大尉。
優秀な党員である彼が、なぜドライマンを擁護するようになったのか。
このきっかけや傾倒していく様が理解し難くないか。
「善き人のためのソナタ」を聴くシーンがその決定的なターニングポイントとして描かれてはいるが、「なぜヴィースラー大尉はここで涙したのか?」が僕には分からなかった。これが僕の唯一にして最大の不満だ。
それ以外は実に見応えのある濃厚なドラマで、ベルリンの壁が崩壊するまでは知り得なかった独裁国家の非道が、まるで厳冬の空気のような静かだけど肌にぴりぴりと痛いタッチで描かれている。
個人的にとても好きなシーンはヴィースラー大尉がベルリンの壁崩壊を知るシーン。
手紙の開封作業という閑職の部署に、かつて党の食堂で議長のジョークを飛ばした若者がいる。
些細な演出だけれど、これも旧東ドイツの実情をうまく表現していたと思う。
エンディングの切れ味も良かった。
最後の最後、たった一言のセリフで泣かせられた映画も久し振りだった。
この作品は「終わり良ければすべて良し」の典型でもある。
それが昨日見た「ノーカントリー」とは決定的に違うところで、映画の評価を大きく左右するのはやはりエンディングなのだ。
観客に結論を委ねる映画も悪いとは言わない。
けれど僕は、映画で一番大切なものは「メッセージ」だと思う。
語り継ぐべきもの。
「善き人のためのソナタ」も大切なその一つだ。