見逃していたら絶対オススメの20本~2006年版~ [2006年 ベスト20]
皆さん、お正月映画観てますか~?
えー、あけましておめでとうございます。
社会人になって24年。今年はじめて大晦日から1月5日まで、6日間ぶっ通しでお正月休みになったkenです。一体何すればいいのかさっぱり分かりません(笑)。
さてさて。本日はすっかり恒例となりました(と、言ってもまだ3回目)「見逃していたら絶対オススメのベスト20」を発表したいと思います。
えー2006年はですねぇ、ワタクシかなり真面目に仕事をしていたせいで、この3年間で最低の133本しか映画を観ることが出来ませんでした。その前年は246本も観たわけですから、いかに2005年は仕事をしていなかったか 昨年は頑張って仕事をしていたかが分かろうかというもんですが、とにかくこの中からベスト20を選出させて頂きます。
ちなみに133本の製作国別本数はこんな風になりました。
アメリカ 54本
日本 29本
韓国 16本
香港 5本
フランス 4本
イタリア 3本
イギリス 3本
中国 3本
ドイツ 1本
タイ 1本
イラン 1本
その他合作 13本
面白いことに上位4カ国の順位は2005年と同じなんですよね~。
ところで断わっておきますが、僕は無理に20本を選んだワケじゃありません。なんたって昨年は133本しか観ていませんから、自信を持ってオススメできるものが20本揃わなければ、15本でも16本でもいいと思っていました。が!なんと幸運なことに20本キッチリ揃いました~(笑)。
ではご覧下さい!
ちなみにこちらはランキングではありません。僕が観た順番で並んでいます。
ホテル・ルワンダ [2006年 ベスト20]
同じところに住み、同じ言葉を喋り、同じ宗教を信じ、人種間結婚もしていた2つの部族。
しかし、ある事件をきっかけに長年続いていた民族間のいさかいが大虐殺に発展してしまう。
何の罪も無い「ツチ族」の人々が、一部の「フツ族」たちによって次々と殺されていく。
死者はわずか100日間で100万人にも上ったという。
これは日本から遠く離れたアフリカの小国ルワンダでの出来事である。
しかし決して遠い昔の話ではない。
事件が起きたのは1994年。
アイルトン・セナが事故死し、村山内閣が発足し、プレイステーションが発売された年である。
それから12年後。
東京・有楽町の劇場で僕はこの作品を観ながら身震いをしていた。
実はこの事件が起きた年、そうとは知らずに僕もアフリカにいたからだ。
そこはルワンダから西へ約5,000キロ離れたアフリカ西端の国、ギニア。
滞在はたった13日だった。けれど僕はギニアでの出来事を一生忘れない。
なぜなら、僕はここで「本当の恐怖とは何か」を知ったからだ。
「ホテル・ルワンダ」の生い立ちと日本公開に関する経緯はいろんなところに書かれているので、僕は純粋に映画としての話を書こうと思う。
巷の評判どおりこの作品は本当に良く出来ている。
中でも僕が感心したのは「映画であることを忘れさせるリアリティ」を確立している点だ。
実際僕は終盤ジャン・レノがカメオ出演するまで、映画であることを忘れつつあった。僕はポール・ルセサバギナ(ドン・チードル)と共にルワンダ脱出をひたすら考える人だった。
リアリティを持たせるために効果的だった演出上のポイントは2つあったと思う。
まずは「虐殺の様子を一度も映像化しなかったこと」。
そもそも殺人とは非日常の行為である。それを我々が目撃するのはテレビドラマや映画といったフィクションの世界でしかない。もしも「ホテル・ルワンダ」に殺人シーンがあったなら、観客は「所詮これは映画なのだ」と心のどこかで思ったことだろう。しかし虐殺シーン(それは残酷すぎて描けないという理由もあったかも知れないけれど)がなかったおかげで、結果としてニュースやドキュメンタリーと同レベルの「現実」を見ているような「錯覚」を観客に与えたのだ。虐殺シーンを盛り込まないという監督の判断は実に賢明で効果的な選択だったと思う。
もうひとつのポイントは、「民兵が主人公に銃を握らせ、妻を銃殺させようとするシーン」を割りと早い段階で、しかもさらりと挿入して見せたことだ。
「妻を殺すか、それとも自分が殺されるか」という“究極の選択”は、本来ならドラマ全体の「肝」となるうるシーンである。こんなシーンを見せられた観客は誰もが主人公となって激しく苦悩する。ここはワンカットづつじっくりと時間をかけて編集し、観客をを追い込んでいく演出も当然可能なはずだった。ところが監督は実にあっさりとした編集で、しかも本編の序盤にこのシーンを配置した。まるで「こんなことルワンダでは日常茶飯事だったんだよ」と言わんばかりに。このシーン以降スクリーンからは並々ならぬ緊張感が伝わることになる。
少なくともこの2つの点が「ホテル・ルワンダ」に(例えジャン・レノが出ていようが)揺るぎないリアリティをもたらし、「もしや自分も誰かに殺されてしまうのではないか?」という謂れの無い恐怖を観客に与え、大量虐殺もさることながらそれを「第三世界の出来事」として黙殺しようとしたアメリカ、ヨーロッパ、国連の行為が「如何に人の道から外れていたか」訴えることに成功している。
ところが。
エンドクレジットが流れるころ、観客は再び平和な現実の世界に戻される。
もちろんルワンダの虐殺は日本では“非現実”である。あれから10年以上が過ぎ、事件は一応の解決を見ている。しかし、だから良いというわけではないのだ。平和ボケした我々日本人は、この映画から学習しなければならないことがある。
それは「世の中には我々の想像もつかない“恐怖”が存在している」ということだ。
僕がギニアで体験した恐怖は直接命に関わることではなかった。その恐怖は何気ない表情をして日常に潜んでいた。
例えば。
ギニアには数年前まで骨折を治せる医師がいなかったと聞いた。その証拠に骨折しただけで右腕を切断する羽目になった少年がいた。
一般道をクルマで走っていたら突然警察の検問に遭い、通行料を要求された。ギニア政府の撮影許可証を持っていたにも関わらず。
ホテルで国際電話をかけたら、まもなく従業員が僕の部屋を訪ねてきて、「今の通話料100ドルを現金で払え」と言う。電話料金をその都度現金で払うなんて世界中どこのホテルでも聞いたことがない。チェックアウトのときに精算する、と言うと従業員は「じゃあ50ドルでいい」と言った。僕はバカバカしくなってドアを閉めた。
僕がギニアで知った「本当の恐怖」とは「常識が通用しない怖さ」だ。
日本でも警察官に車を止められることはある。しかし「この先の通行は我々の許可なしに出来ない」と言われることがあるだろうか。しかもその警察官たちは実は無言で現金を要求していると知ったら、あなたはどう思うだろう。
少なくとも僕は怒り狂った。
国の大臣に言われるがままの額を支払い、ギニア国内の私有地以外すべての場所での撮影許可証を持っていたのである。ところが僕たちの前に立ちはだかった警察官たちはそんなことお構いなしだった。
これが日本なら行動の起こしようはある。所轄の警察署や本庁に抗議も出来るし、マスコミにリークすることも出来る。しかし僕がいたのはアフリカだった。そして正義の象徴と信じていた警察官が僕たちの身柄を拘束しようとしていた。ギニアに日本大使館は無かった。頼るべきところを失った僕たちに最早「常識」など無かった。そして、常識の通用しない世界を支配するのは恐怖以外の何物でもなかった。
「ルワンダの大虐殺は決して対岸の火事ではない」と僕は思う。
ポール・ルセサバギナは鍵のかかった自宅で休んでいるとき、銃を構えた民兵に踏み込まれた。今の日本では考えられないことだが、これはたとえルワンダであっても有り得ないことだった。
とすれば、今の日本に北朝鮮の核ミサイルが飛んでこないと断言できるだろうか。
僕には出来ない。
「だってそんなことフツー有り得ないだろう」と人は言う。
では僕は聞きたい。
「そのフツーとは何なのか?」
僕はギニアで、「常識」とは小さなコミニュティでのみ成立している「暗黙の了解」であることを知った。僕たちはこの「あやふやなもの」の上に胡坐(あぐら)をかいて生活しているのだ。
絶望の淵にいたギニアで唯一僕たちの心を癒したのは子供たちの笑顔だった。
子供たちはとにかく無心だった。
彼らの望みは僕たちの仕事を見学することと、一緒に遊ぶことだけだった。
僕たちは仕事の合間に彼らと一緒にサッカーをした。
楽しかった。
やがてすべての撮影を終え、明日は帰国するだけという段になったとき、それまで僕たちの周りにいた子供たちの姿がなかった。どこに行ったんだろうと思って探したら、ここにいた。
子供たちは勉強をしていた。
僕はこの光景を見て、世界に平和をもたらすものは教育だと思った。
もちろん誰がどんな教育を施すかによって子供たちの思想は大きく変わる。宗教の存在も大きい。だから一概にどんな教育がいいかとは言い難い。
しかし教育を受ける国や地域が変わろうと、「普遍の常識」だけは誰でも教えられると僕は思う。
「何人たりとも人の命を奪うことは出来ない」
この「常識」だけは「世界共通の常識」であって欲しい。
「ホテル・ルワンダ」、必見の名作。
thanks! 320,000prv
ブロークバック・マウンテン [2006年 ベスト20]
「ブロークバック・マウンテン」(2005年・アメリカ) 監督:アン・リー 脚本:ラリー・マクマートリー他
劇場で観るタイミングを逸した僕にとって「ブロークバック・マウンテン」は“不遇な映画”だった。
ゴールデングローブ賞の主要3部門(作品、監督、脚本)を獲得したにも拘らず、アカデミー作品賞は「クラッシュ」にさらわれ、また「究極の恋愛映画」と高い評価を得る一方で、大勢の人たちが「ゲイのカウボーイ映画」と吐き捨てた、とも聞いた。
巷に振り幅の広いニュースが飛び交ったせいで、僕はこの映画のことを気にかけるようになった。
やがて劇場で観られなかったことを後悔するようになり、「クラッシュ」を観たらその思いはさらに強くなった。そして観てもいないのにリリースと同時にDVDを買い、この映画を観る体制を整えようと時期を待った。さらに、これはただの勘でしかないのだけれど、この映画はきっと僕の心に刺さるはずだと信じていた。
とにかく、どういうわけだか僕は観る前からこの映画のことが好きだったのだ。
本編。
オープニングからまもなく映像の美しさに呆然とする。特にブロークバックの美しさたるやどんな美辞麗句を並び立てても適うものはない。その荘厳さに圧倒されるのみだ。
金に物言わせたハリウッド映画とは全く違う。これぞアメリカ映画。
本編が始まって20分足らず。僕は「ハリウッドもその気になればやれるじゃねーか!」と突っ込もうとしたが、「そういや監督のコン・リーは台湾人だった」と気付いて止めた。
ドラマは「強いアメリカ男性の象徴」である“カウボーイ”という設定が効いている。
“男の中の男”2人はとまどいながら相手を想い、やがてその想いが両親や妻や子供たちを不幸の渦へと巻き込んで行く。
時代設定もいい。2人の出逢いは1963年。「時代が違えば2人の愛は許されたかもしれない」と今に生きる観客は思いながら、彼らの葛藤に心を震わせる。
しかし、男2人の肉体的な交わりのシーンでは嫌悪感を覚える観客もいるだろう。女同士のキスは許せても、男同士のキスを許せない理由を僕はうまく説明できないけれど、僕自身も途中何度か冷静になってしまうシーンがあった。どんなに感情移入をしても、ふとした瞬間に作品を客観視してしまうと、映画そのものを純粋に楽しんだとは言い難い。
それ以外の部分は本当に良く出来ていて、脚本が良いのか編集が巧いのかは分からないが、時間経過の繋ぎは天才的な技だったと思う。どちらかというと説明は足りないくらいの編集なのに、なぜか観客にとっては戸惑いのない展開をしているのだ。これは改めて観てみて研究したいほどの出来栄えだった。
「もしかしたら、75点くらいの映画だろうか?」
過度な期待をしてしまったばかりに僕は途中であきらめにも似た気持ちを抱いていた。
映像は相変わらず美しい。話もまずまず面白い。でもこんなものか?
そう思いながら迎えたエンディング。
予想だにしなかった展開に僕は思わず号泣してしまう。
「映画は始まった瞬間からすべてがラストシーンへと繋がっているのだ」
遠い昔、誰かに聞いたか、何かで読んだ言葉が、ふと僕の脳裏に蘇えった。
注:ここからエンディングのネタバレに入ります。
未見の方はぜひご覧になってからお越し下さい。
リトル・ミス・サンシャイン [2006年 ベスト20]
東京国際映画祭 コンペティション作品
10月28日(土)12時20分、渋谷オーチャードホールの幕が上がる。
それから100分後。
ブラックアウトしたスクリーンにエンドクレジットの最初の一行が現れた瞬間、会場は万雷の拍手に包まれた。
感動だった。
観客のアクションにも、大きく響き渡る音にも、そして映画にも。
「リトル・ミス・サンシャイン」は9歳の娘をミスコンに出場させるため、アリゾナからカリフォルニアまでワーゲンのオンボロバスで移動する家族の物語。
この家族のキャラ設定が秀逸なんです。だから面白いんだけど(笑)。と言うわけで、チラシに掲載された文章を引用して登場人物を紹介します。
【グランパ】 老人ホームを追い出されたわがままなおじいちゃん。
【リチャード】 “負け組”否定の成功論提唱者のパパ。
【シェリル】 家族をまとめようと孤軍奮闘しているママ。
【フランク】 ゲイで自殺未遂のプルースト研究家の伯父。
【ドウェーン】 ニーチェに心酔している沈黙の兄。
【オリーブ】 ミスコン優勝を夢見る9歳の妹。
言っちゃなんですけど、このキャラ設定には文句のつけようがありません。今振り返っても「これ以上の設定はあり得ない!」と断言できる完璧な組み合わせと配役でした。
また個人的に今回は「ロードムービー」というジャンルの面白さを改めて知ることになりました。
このジャンルは基本的に旅をするわけですから、「容易に絵変わりさせられる」ことが最大の特徴なんですが、裏を返せば「なんでもあり」ということでもあって、優れたロードムービーに仕上げるためには、いくつ面白い場面を作り出せるか、が重要なポイントになってきます。
しかし、だからといって突拍子もない事ばかりが次から次に起こっても、今度はリアリティを失うばかり。つまりロードムービーには「観客の予想を裏切りながらもリアリティを損なわないシーン」がいくつも必要になってくるんですね。
「リトル・ミス・サンシャイン」の脚本(マイケル・アーント)は、まずこのさじ加減が素晴らしかった。
移動中に遭遇するさまざまなトラブルやアクシデントは絶妙な伏線によってリアリティを保ち、ときに重くなりがちなテーマも、肩肘張らないジョークをさりげなく織り込むことで重量感を払拭することに成功しています。中でも兄ドウェーンと伯父フランクのエピソードは笑いました。
でも、もうこれ以上詳しいことは書きません(笑)。
今回僕はこの作品を観て、『映画はまず娯楽であること』、が大事だと改めて思いました。
僕は眉間にシワを寄せて観る映画よりも、笑いジワが出来るかも知れない映画が好きです。
そして自宅で静かに映画を観るよりも、沢山の人と一緒に劇場で映画を観ることが好きです。
「リトル・ミス・サンシャイン」は本当に面白い映画でした。
僕がこうやって自信を持って言えるのは、大勢のお客さんとこの映画を共有できたからです。
劇場で映画を観るときは決して恥ずかしがらずに大きな声で笑いましょう。
その笑い声が、1本の「おもしろい映画」を「すごくおもしろかった映画」に印象を変え、アナタの記憶に残り続けるのです。
この作品も出来ることならぜひ劇場で観ていただきたいと思います。
さて翌日。
本作品は見事、最優秀監督賞を受賞しました。
おめでとうございます。
今回、我々と一緒にオーチャードホールで自作を観て、「日本人は笑うポイントが違うな」と思っていたそうですが、エンドでの拍手に感激したとか。僕は劇場公開時にもう一度観に行って、DVDになったら即買って、またまた観ようと思います。
それにしても「サンキュー・スモーキング」に続いて2日連続でこんなに素晴らしい映画を観られるなんて、人生で初めての経験だったので実は土曜の夜はモーレツに感動しておりました(笑)。
こんなことが頻繁にあればいいのにな。
サンキュー・スモーキング [2006年 ベスト20]
世界的に禁煙運動が拡がる中、「タバコ研究アカデミー」のPRマンとして喫煙擁護を訴える男の活躍を描くコメディ。
この映画、つかみは完全にOKでした。Tex Williamsのオープニング曲「smoke,smoke,smoke that Cigarette」が出色。ブラックな匂いプンプンの歌詞が軽くひと笑いさせてくれます。
さらに本編序盤は「スナッチ」のガイ・リッチーを思わせる編集が気持ちいい。でもこの作品はガイ・リッチー風味で終わらないところが良いんです。なんと言っても脚本が小気味いい。
ディベートの面白さと一緒です。黒いものを黒と知りつつそれでも白と主張する論理の醍醐味。観客は主人公ニック・ネイラー(アーロン・エッカート)のセリフに「上手いこと言うなあ」と感心したら最後、この映画の魅力にはまったも同然です。
余談ですが、僕は6年前にタバコを止めました。
喫煙していた当時は所構わず1日に40本ほど吸っていたのですが、いざ止めてみると喫煙者に対して「おまえらふ・ざ・け・ん・な」くらいの怒りを覚えることがあります(笑)。一番は「歩きタバコ」に対してですが、とにかく絶対に相容れることのない「喫煙者」と「非喫煙者」の両者が、ことこの映画に関しては両者とも「おもしろい!」と言うことは間違いありません。ただし法的に喫煙が許される年齢以上でないと、笑えないとは思いますけど(笑)。両者がどうして笑えるかと言うと、世の中には表と裏、ホンネとタテマエがあることをオトナなら誰もが知っているからでしょう。
そしてもうひとつ。この映画が巧いのは「子供の目線」を折り込んだところ。
大人のタテマエだけでなく、子供の純粋な気持ちで、反社会的な活動に奔走する男の姿を描写したことで、すべては生きるためであり、家族のためであるというテーマがきちんと謳われているのです。
さらに一言付け加えるなら、タバコの映画でありながら喫煙シーンが全く無いという驚きの事実。
喫煙を擁護する男の話であるものの、映画自体のスタンスはそれとは違うと言いたかったのでしょうか、いずれにしても巧い演出だったと思います。
これでたったの93分!近年ここまでスマートなブラック・ジョークの映画も無かったと思います。
文句なしの傑作。
浮雲 [2006年 ベスト20]
「浮雲」(1955年・日本) 監督:成瀬巳喜男 原作:林芙美子 脚本:水木洋子
以前、雑誌「FRaU」の特集で女優の木村佳乃が推薦していた「観終わるとふたりでハッピーになれる映画10本」の1本。そのときの紹介文はこんな内容でした。
「ヘビーな恋愛ものなので、彼の体調のいいときに。または長く付き合っている彼氏とぜひ。もちろん黒澤明や小津安二郎もいいけれど、男性にも成瀬を観てほしいですね」。
名匠・成瀬巳喜男監督が、高峰秀子主演で林芙美子の同名小説を映画化。自堕落な男と別れきれない女の究極の腐れ縁を描く。
「究極の腐れ縁」ってアータ(笑)。でも僕はこれで観る気になったんですよねー。
しかも成瀬巳喜男監督の映画は1本も観てなかったし。
で、観終わってふたりでハッピー!になれるかどうかは疑問ですが、この映画はかなり面白いです。
僕が一番気に入ったのは次の展開がまったく読めなかったこと。
独特なテーマ曲のオープニングから、思わず唸ってしまうエンディングまでの124分間。全篇に一瞬の緩みもない緊張感が漂っているんです。これは圧巻でした。
この緊張感を支えているのは水木洋子さんの脚本と、高峰秀子さんの名演技(オープニングまもなく富岡家の玄関先での芝居からすでに完璧だった)もありますが、やはり成瀬監督の卓越した演出力に驚かざるを得ません。今回僕はこれまで成瀬作品を観てこなかったことを激しく後悔しました。
恋愛でつらい思いをしたことのある人なら誰でも共感できること間違いなし。
たとえ時代が変わっても、男と女の間に必ず存在している「距離感」を目撃してください。
21世紀の今でも必見の名作。
アメリカ,家族のいる風景 [2006年 ベスト20]
「アメリカ,家族のいる風景」(2005年・ドイツ/アメリカ) 監督:ヴィム・ベンダース 脚本:サム・シェパード
「パリ、テキサス」のコンビが20年ぶりに組んだと聞けば、もうそれだけで観る価値アリ。
ところがこの作品、ジム・ジャームッシュの「ブロークン・フラワーズ」と設定がまったく同じなんです。もちろんどちらかがそれを真似たワケじゃなく、ただの偶然なんだろうけど。
どちらも観ていない方のために説明すると、「人生も半ばを過ぎた独身男がある日『アンタの子供を産んだ女がいる』と聞かされて、その女と子供に逢いに行く」と言うお話です。どっちも(笑)。
だからって僕は「なんだよ、ネタかぶってんじゃんかよ」とは思いませんでした。だって世の中にはこんな身勝手な男がゴマンといるし、僕自身“もしかしたらそうなっていたかもしれない”中年の独身男だし、そして何よりジャームッシュもヴェンダースも屈指の映像作家だからです。
というわけで、ここはひとつオトナの目線で楽しみましょう。
しかし、この邦題だけはいただけませんね。
原題は「Don't Come Knocking」。これでいいじゃないですか。
訳すと「やってくるな」ってことになりますが、これを登場人物の誰の言葉に置き換えるかは観た人の自由。映画を観終わったあとでタイトルの意味を考えるのも、映画オタクっぽい楽しみ方で僕は好きです(笑)。
本編。
ヴェンダースはこの映画を「人生で愛するものに気づくのが遅すぎた男の悲喜劇」と語っていました。うわあ、40過ぎの独身男にはグサグサ刺さる言葉じゃないですか。だからヴェンダースは「悲喜劇」と言いましたが、僕はほとんど笑えませんでした(笑)。
そう僕は落ちぶれた西部劇のスター、ハワード・スペンス(サム・シェパード)を「オマエはなんて酷い人生を送ってきたんだ」と卑下したつもりが、実は「天に唾しただけ」だったと言うワケです。特にハワードとドリーン(ジェシカ・ラング)のスポーツジムの前でのやりとりは胸がチリリと痛みました。
しかし、この映画のいいところはダメな中年男を放り出さずに救っているところ。まあヴェンダース自身が「バツ5(!)」ってこともあるかも知れませんが、人間っていくつになってもやり直しがきくんですね。あ~良かった。
脚本を書いて自ら演じたサム・シェパードがとにかくカッコイイです。存在感バツグン。
実はヴェンダース、「パリ、テキサス」の主演もサムに頼んだらしいです。ところが「今の自分には演じる自信がない」と頑なに拒否され、泣く泣くハリー・ディーン・スタントンを起用したのだとか。ハリーには悪いけど今のサムが演じる「パリ、テキサス」もちょっと観てみたいね。
「アメリカ,家族のいる風景」と「ブロークン・フラワーズ」。
2人の名匠が同じテーマの映画を撮った。さてその違いとは…?
こんな楽しみ方が出来ると思えば、ますます「観る価値アリ!」の作品だと思います。
サム・シェパードの構成力とヴェンダースの演出力に感嘆する124分。
thanks! 270,000prv
グエムル-漢江の怪物- [2006年 ベスト20]
「グエムル-漢江の怪物-」(2006年・韓国) 原案・脚本・監督:ポン・ジュノ
一番の驚きは「殺人の追憶」の監督が“怪獣映画”を撮ったということだろう。
またこれが韓国初の本格怪獣映画であることも興味深い。
しかし、観ればもっと驚くことがある。
なぜなら、これはただの怪獣映画なんかじゃなく、熱い人間ドラマだと知るからだ。
*この先ネタバレします。
スーパーマン リターンズ [2006年 ベスト20]
長い間映画を観てきて、僕は今日ほど“監督”という存在を大きく感じたことはありません。
ブライアン・シンガーが「スーパーマン」のファンで良かった。
ブライアン・シンガーが「X-MEN」「X-MEN2」の監督をやってくれていて良かった。
ブライアン・シンガーが監督を引き受けてくれて良かった。
ブライアン・シンガーがストーリー設定を考えてくれて良かった。
そして、ブライアン・シンガーと同世代で良かった。
以下、激しくネタバレします。
ちなみにこれから観に行こうという方は、前シリーズの「1」と「2」を観てから行って下さいね。
クラッシュ [2006年 ベスト20]
2005年度アカデミー作品賞、脚本賞、編集賞受賞作品。
まだ記憶に新しいところだが、作品賞の大本命は実は「ブロークバック・マウンテン」だった。しかし「クラッシュ」の受賞は「大逆転」と書いた現地のメディアもあったくらい、まさにどんでん返しだったがために「アカデミーは相変わらず保守的だ」との体質批判が先行し、「クラッシュ」はアカデミー賞報道の“蚊帳の外”にいたように思う。
そんなわけで僕も実際に観るまでは「なんとなく地味な作品だな」という先入観があって、しかも出演している役者もサンドラ・ブロックが唯一主役クラスで、続いて名の知れたところではドン・チードルくらいと来ているから、アメリカはともかく日本では爆発的にヒットしていたという印象は薄い。
つまりこの「クラッシュ」はアカデミー作品賞を受賞したがために正当な評価が伝わり難くなった珍しい作品なのだ。では実際のところどうなんだろう?
どちらかというとかなり刺激的で、そしてアカデミー脚本賞に相応しい内容だったと思う。
ここには実に多様な人間が登場する。
観客はこの中の誰かを自分に置き換えて見ることになるだろう。
年齢も、性別も、職業も、肌の色も、人種も関係なく、登場人物の中の誰かを嫌悪し、誰かに加担したくなるはずだ。そしてその瞬間、あることに気付く。
人間は誰もが加害者であり、被害者なのだと。
僕はこの先、「クラッシュ」を観る度に新たな発見と新たな反省をすると思う。
被害者と加害者は表裏一体。コインを回した力加減で、キャッチするタイミングで、ほんの些細なことで、被害者は加害者になり、加害者は被害者になるのだ。
ここから先は、観客一人一人が何かを受け止めればいいと思う。
僕はこう思った。
人間に「先入観」というものがある限り、これから先も「差別」と「偏見」はなくならないだろう。
しかし、「差別と偏見」は「知恵の輪」と同じだ。
「知恵の輪」は一見すると解けるようには見えないが、この世に解けない「知恵の輪」は存在していない。それは人間が作ったものだからだ。
差別と偏見も人間が作ったものである。
だから必ず人間の力で解決することが出来るはずなのだ。
「クラッシュ」は(PG12に引っかからない)すべての人にオススメする傑作です。